司馬 遹(しば いつ、278年 - 300年)は、中国の西晋の皇族。字は煕祖。諡は愍懐太子(びんかいたいし)。第2代皇帝恵帝の長子。生母は淑妃(側室)の謝玖。幼い頃から聡明であり、祖父の武帝が城下の火事を高楼から眺めていると「このような時は用心すべきです、皇帝の姿をこのように照らし出させてはなりません」と言って武帝の裾を引いたという。武帝が愚鈍な恵帝を後継ぎにした背景には、愛する孫に対する過大な期待もあったと言われている。父の即位と共に、元康元年(291年)8月に皇太子となるが、恵帝の皇后である嫡母の賈后とは不和であり、司馬遹は夫に代わって権力を牛耳る賈后を嫌っており、また賈后は自分に実の息子がいないことから、司馬遹の即位後に権力の座を追われ抹殺されることをおそれた。司馬遹は剛毅な性格であり、長じてはあまり学を好まなかった。宮中で自ら商売を行ったり、皇帝用の菜園の農作物を売ったりして、利益を得ていた。皇太子の毎月の手当てをいつも2か月分ずつ受け取りお気に入りに与えていた。また、行ないを改めるように諌言した臣下の絨毯に針を仕込むという嫌がらせまでした。賈謐は賈后の権勢を後ろ盾に司馬遹を軽んじ、司馬遹も賈謐を待たせて遊んでいたりと、両者に溝が出来ていった。賈謐は賈后に、司馬遹の即位後に我々は楊駿の一族(賈后の策謀により族滅)と同じ目に遭う、と太子を謗った。賈后は司馬遹の短所を言いふらし、継子の司馬遹を排除しようとした。司馬遹は賈后を排除しようと進言する臣下の言を聞かなかった。重病の長子司馬彪に王位を求めてやって来た司馬遹は、無理矢理大量の酒を呑まされ、泥酔して前後不覚の状態で謀叛文を書き写させられた。こうして無実の謀叛の罪を着せられた司馬遹は、元康9年(299年)12月、即座に皇太子の地位を追われ、庶人に落とされたが、いまだ人望があったことから処刑することまでは出来ず、許昌に送られ幽閉された。王衍は急いで娘の太子妃王恵風を司馬遹と離婚させた。母の謝玖と側室の蒋俊も共謀罪を問われ、12月30日に処刑された。司馬彪は翌永康元年(300年)1月に死去した。永康元年3月、賈后は司馬遹を復位させる動きがあることに恐怖し、暗殺を決意した、太医令の程據は命令をうけ、毒薬を飲むのを拒んだ司馬遹は薬杵(やくしょ、薬を調合する棒)で無惨に撲殺された。享年23。その後、賈后は司馬懿の息子である趙王司馬倫と恵帝の従弟である斉王司馬冏により殺害され、八王の乱が始まった。亡き司馬遹は復権し、愍懐太子の諡を贈られた。その後、司馬遹の息子2人が相次いで皇太孫となるが、次男の司馬臧は司馬倫に殺され、三男の司馬尚も夭折し、司馬遹の血統は途絶えた。
出典:wikipedia
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