作並村(さくなみむら)は、1889年まで宮城県宮城郡の北西部にあった村である。江戸時代には作波村とも書いた。合併して広瀬村となり、宮城村、宮城町を経て仙台市青葉区の一部になった。山形県との県境、奥羽山脈の中にある山村で、江戸時代から作並温泉があった。"この記事では合併後の作並地区についても記述する。"宮城県中部、宮城郡の西端にあり、北西から南東に長い。現在の仙台市青葉区の大字作並とニッカの2地区にあたる。面積の大部分は奥羽山脈の山地で、北西の関山峠で山形県に通じた。峠付近から広瀬川が流れて東に向かう。広瀬川は江戸時代には作並川といい、作並では作並川、熊ヶ根で熊ヶ根川と地名に従って次々名を変えた。作並の東端近くに鳳鳴四十八滝がある。川沿いに国道48号(関山街道、作並街道)が通る。村の中部から南東部にかけて細長い河岸段丘があり、集落が点々と連なる。村の中央部から上流で広瀬川は深い谷を刻み、そこで国道は山の急斜面につけられ、関山トンネルで県境をくぐって山形県に抜ける。地図上では地区の中央部、集落の連なりからすると北の外れ近くに、作並温泉がある。少し南には江戸時代に宿場町がおかれた壇ノ原という小字があり、宿と通称される。1931年、そこから南東にある相ノ沢という字に作並駅ができると、その周辺に町並みが形成され、作並地区の中心は宿から駅周辺に移った。村の南境は新川川で、新川村に接した。川の北岸は地理的には新川に近いが、作並の一部である。宮城町の時代にニッカウヰスキーの工場が建てられた新川川と広瀬川の合流点も作並であったが、工場の敷地だけニッカ地区として分離され、現在は「仙台市青葉区ニッカ1番地」である。作並でもっとも目立つ山は、国道に面する南側に断崖をさらす標高520メートルの鎌倉山である。人里離れた山中に大沼がある。かつて大沼には浮島という島があり、漂って位置を変えることで知られていた。1906年頃に浮島は北岸に付いて動かなくなったという。サクラの品種に、作並に生えていたことから名付けられた「作並菊」がある。縄文時代の遺跡に、相ノ沢遺跡、鎌倉山遺跡、日向遺跡、川崎遺跡がある。それ以降の遺跡は発見されておらず、平賀館跡まで下る。戦国時代には名取郡に属して伊達氏の勢力圏内にあり、天正16年(1588年)に作並の野伏新左衛門が首3級を伊達政宗に献じて褒美をもらった。この頃宮城郡・名取郡では最上義光領から侵入する小部隊との小競り合いが繰り返されており、これもその一つであったのだろう。平賀館は江戸時代のはじめに作並宿の北の小さな高地に仙台藩士の平賀源蔵が住んだと伝えられる居館である。源蔵は館のそばに興源寺を作った。山林面積が広いため、林業が江戸時代から重要であった。ただしその時代には伊達家がここに嶽山御林、ふとう原(不動原)御林、大鳥屋御林の三つの直轄林をおいたため、村人が利用できる範囲は狭かった。江戸時代後期から20世紀前半までは仙台と山形に盛んに薪炭を送り出した。耕地は広瀬川と新川川の河岸段丘に限られ、川にそって細長く分布する。江戸時代に開湯された作並温泉には、7、8軒のホテル・旅館が立ち並ぶ。伝統産業として、作並こけしの製造があり、広瀬川にかかる作並橋の東にある平賀こけし店で作る。広瀬村の頃の1931年に、仙台駅から西に伸びる仙山東線が作並駅まで延伸した。この路線は1937年に山形から伸びる仙山西線と手を結び、仙山線と改称した。仙台市に属するようになった1987年に、地区の東南端に西仙台ハイランド駅が設置されたが、仙台ハイランドまで芋峠を越えて3キロメートルある不利な立地のため、2004年から停車がない。作並温泉まで国道48号沿いに2キロメートル離れている作並駅にも似た事情があり、全盛期と比べて列車本数、利用者数ともに大きく減った。主要な道路は北西で関山峠から山形に、東南で鎌倉山の麓から仙台に通じる国道48号である。作並街道、関山街道ともいう。作並宿はこの街道に仙台藩が置いた宿場町であった。18世紀の後半には村内の街道に橋は2箇所しかなく、歩いて渡る所が多かったが、明治時代の初めまでに簡素ながら橋が架けられた。しかしながら関山峠越えが険しかったため、仙台・山形間の交通には南まわりの笹谷街道が主に用いられていた。1882年開通の関山トンネルでこの状況は一変した。前後して関山街道が馬車が通行可能な傾斜と幅に改められ、関山街道は仙台・山形間の主要街道になった。しかし山形に鉄道が通って東京に直結するようになると、関山街道の利用価値は減った。20世紀後半にトラック輸送が盛んになると、関山街道の後進である国道48号の交通量は再び増加した。1968年に新しい関山トンネルが開通した。2006年現在、作並地区内では片側1車線、計2車線だが交通量は多い。国道沿いには作並除雪ステーションと作並車輛検測所がある。作並には1873年に作並小学校が置かれたが、1887年に廃止されて分教場に格下げになった。1948年にもう一度新設されて2009年現在に至る。中学校以上が置かれたことはない。江戸時代の作並村には寺院として興源寺があり、仏堂として薬師堂があった。いずれも2006年現在まで残り、他に烏不動と2つの寺がある。桧倉山興源寺は、曹洞宗明峰派に属し観世音菩薩を本尊とする。寺の伝えでは伊達家の家臣平賀源蔵が建て、仙台の竜泉院十八世武山正芸を開基とする。壇ノ原(宿)に所在したが、1959年(昭和34年)8月に北子原に引っ越した。薬師堂は穴薬師とも呼ばれ、新川川下流北岸の岩谷堂という地区にある。地名は岩をうがってつくった薬師堂から生まれたものであろう。広瀬川と新川川にはさまれた東西に長い地区は、その中央に東西に走る稜線によって分けられる。その山の南面の岩壁に方形に穿ち、十二体の木の仏像を置いたのが、穴薬師である。1959年(昭和34年)に関山峠の登り口に鶴林山関山院が開かれたが、1984年(昭和59年)に火災に遭ってなくなった。岩谷山崇高院は比較的新しい寺院で、岩谷堂地区にある。場所は薬師前から西に入った奥である。作並温泉から上流に入った広瀬川左岸(東岸)、新作並橋をわたったところに、慈光院がある。(寺院らしいが詳細は不明)1772年頃の作並村には山神社、稲荷社、日月社、葉山権現社があり、明治時代には八幡神社、大伊勢沢神社、山神社、稲荷神社、葉山神社があった。20世紀以降、八幡神社と日月神社は一緒に祀られており、おそらくは江戸時代も同様であろう。これらのうち八幡神社が1875年(明治8年)3月15日に村社になった。作並村が合併して広瀬村の一部になってから、1919年(明治22年)5月17日に広瀬村の神社はみな村内の上愛子にある諏訪神社に合祀された。内務省の神社合祀政策によるもので、公的にはこのとき作並の神社は全廃された。しかし地元の人は日月・八幡神社の祭祀を絶やさず、2006年現在に至る。後に作並温泉に湯神神社が作られた。また、同じく作並温泉の一の坊ホテルが門の前の植え込みの中に温泉神社という小さな社を作って祀り、2006年現在の作並には3つの神社がある。松緑神道大和山は、青森県で生まれた神道系の宗教で、作並にその支部がある。世界基督教統一神霊協会は、文鮮明が韓国で始めたキリスト教系の宗教で、作並に研修所を持つ。敷地の入り口には「作並研修所」とだけ記した看板が掲げられている。
出典:wikipedia
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