丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。和歌山県北東部、高野山北西の天野盆地に鎮座する。空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。丹生都比売神社自体も高野山からの影響を強く受け、境内には多くの仏教系の遺跡・遺物が残る。和歌山県・奈良県を主とした各地では、高野山の荘園に丹生都比売神社が勧請された関係で、丹生都比売神社の分霊を祀る神社の分布が知られる。神社では国宝の銀銅蛭巻太刀拵を始めとする文化財のほか、本殿および楼門などの社殿が国の重要文化財に指定されている。また境内は国の史跡に指定されている。これらのうち本殿、楼門および境内は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。祭神は次の4柱。これら4神は「四所明神」とも総称される。『延喜式』神名帳(927年成立)の記載では祭神は1座。その後に上記2座になり、平安時代末頃からは4座になったと見られている。仁平元年(1151年)の文書に「第三神宮」の記載があるほか、正応6年(1293年)には天野四所明神の「三大神号蟻通神」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる。祭神の増加に関して、『高野春秋』によれば承元2年(1208年)10月に北条政子の援助で行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されたという。年代は史料間で食い違うものの、現在の祭神はこれに基づいている。創建の年代は不詳。『播磨国風土記』逸文には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される。同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。その場所は現在の高野町上筒香の東の峰()に比定され、丹生川の水源地にあたる。また同地は丹生都比売神社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく、高野山への土地譲り(後述)に際して遷ったとする説がある。一方『丹生大明神告門』では、丹生都比売神は伊都郡奄田村(九度山町東北部)の石口に天降り、大和国吉野郡の丹生川上水分峰に上ったのち、大和国・紀伊国の各地に忌杖を刺し、開墾・田地作りに携わって最終的に天野原に鎮座したと伝える。また『日本書紀』神功皇后紀には、紀伊国の小竹宮において天野祝と小竹祝を同所に葬ったため昼も夜も暗くなってしまい、別々に埋葬し直して元通りになったという説話がある。この「天野祝」(丹生祝)は丹生都比売神社の神職と見られる。丹生都比売神社に関しては、弘法大師空海が高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られた、とする伝説が知られる。高野山と丹生都比売神社の関係を語る最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある。これによると、弘仁7年(817年)に空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。以上の説話は『今昔物語集』等にも記載されており、説話における前者は高野御子神(狩場明神)、後者は丹生都比売神(丹生明神)の化身といわれる。『丹生祝氏本系帳』には、丹生氏がもと狩人で神の贄のため二頭の犬を連れて狩りをしたという伝承があり、これが高野山開創に取り入れられたと見られている。空海の死後、その弟子達により丹生都比売神社の神領はさらに高野山の寺領となった。丹生都比売神社が高野山に正式に帰属するようになったのは、10世紀末の高野山初代検校で第4代執行の雅真の頃とされる。国史での初見は『日本三代実録』貞観元年(859年)で、「丹生都比売神」に対して従四位下勲八等の神階が奉叙された。元慶7年(883年)には従四位上勲八等に昇叙されている。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では紀伊国伊都郡に「丹生都比女神社 名神大 月次新嘗」と記載されており、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭には朝廷から幣帛を受けていた。また『紀伊国神名帳』には天神として「正一位勲八等 丹生津比咩大神」の記載があり、同じく天神として「正一位 丹生高野御子神」の記載もある。高野山の開創以後、丹生都比売神と高野御子神は「丹生両所」「丹生高野神」として高野山の鎮守となり、壇上伽藍にも勧請された。この記載は、文献では『太政官符案』寛弘元年(1004年)9月25日や『百錬抄』寿永2年(1183年)10月9日に見える。また、高野山の火災では丹生都比売神社が仮所とされたほど重要視されていた。以後も丹生都比売神社は高野山と密接につながり、高野山の荘園には神霊が勧請されて各地に丹生神社が建てられた。そのため境内にも仏教系の伽藍が多く築かれ、その様子は鎌倉時代の「弘法大師・丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に見える境内図にも描かれている。後世には、修験道の修行の拠点にもなった。元寇の際には、丹生都比売神社は神威を表したとして一躍有名なり、公家・武家から多くの寄進を受けた。この頃から、紀伊国一宮を称するようになったと見られている。紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮の位置づけにあったが「一宮」の呼称自体はなく、丹生都比売神社が弘安8年(1285年)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した。なお、他に一宮を称した神社として伊太祁曽神社(和歌山市)がある。中世には多くの社領寄進を受けていたが、それらは天正検地において没収された。近世になり、高野山学侶領から202石余が分与された。明治維新後、明治6年(1873年)に近代社格制度において県社に列し、大正13年(1924年)に官幣大社に昇格した。また、明治の神仏分離に伴い高野山から独立したが、今日に至るまで多くの僧侶が丹生都比売神社に参拝しており、神前での読経も行われる。丹生都比売神高野御子神丹生都比売神社の神職は、古来より天野祝(あまののほうり、丹生祝/丹生氏)が担う。『丹生祝氏本系帳』によれば、丹生祝の祖は天魂命で、紀氏祖の神魂命の系統を引くという。丹生都比売神社は高野山との関係が深く、古くは多宝塔・御影堂・不動堂・山王堂・護摩所・鐘楼・経蔵・坊舎等の仏教建物が営まれていたことが古絵図によって知られる。神仏分離によってこれらは除かれたが、神仏習合時代の遺構が良好に残されていることから、境内は国の史跡に指定されている。本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。いずれも同形式・同規模の一間社春日造の檜皮葺で、第一殿は江戸時代の正徳5年(1715年)、第二殿は室町時代の文明年間(1469年-1486年)、第三殿は明治34年(1901年)、第四殿は室町時代の文明元年(1469年)の造営である。各殿内とも鎌倉時代の一間春日見世棚造の宮殿を納めている。宮殿には嘉元4年(1306年)の銘があり、本殿前身の社殿と見られる。これら四殿は、附指定の宮殿を加えて「丹生都比売神社本殿」として国の重要文化財に指定されている。楼門は室町時代、明応8年(1499年)の造営。13世紀末の作という「絹本著色弘法大師丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に描かれた境内図には、現在の楼門の位置に八脚門が描かれている。現在の形式は三間一戸の入母屋造で、檜皮葺。本殿同様、国の重要文化財に指定されている。境内東部には、鎌倉時代から室町時代に建てられた石造の五輪卒塔婆4基がある。高さは2.1メートルから3.6メートルあり、正応6年(1293年)、正安4年(1302年)、文保3年(1319年)、延元元年(1336年)の刻銘がある。修験行者の行事の模様をうかがわせるもので、和歌山県指定有形文化財に指定されている。境内背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社への枝道(八丁坂)への分岐点には通称「二つ鳥居」と呼ばれる鳥居2基が並ぶ()。高野山参拝前にはここから丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。『紀伊続風土記』によれば、この鳥居は弘仁10年(819年)5月3日に空海によって建立されたといい、当初は木造であったが慶安2年(1649年)5月に現在の石造で建てられたという。この2基は丹生都比売神と高野御子神の鳥居を表すとされる。いずれも国の史跡「高野山町石道」の一部に指定されている。いずれも境内社。丹生都比売神社で年間に行われる祭事は次の通り。御田祭(おんだまつり)は、1月第3日曜に行なわれる農耕神事。平安時代に始まったとされ、形態の変遷を経て室町時代の祭祀の様子を伝えるという。神事では、豊穣を祈って舞が奉納したのち、数々の芸能を披露する。祭は和歌山県指定無形民俗文化財に指定されている。ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年7月登録)の資産「丹生都比売神社」は、以下3件の文化財を含む。書籍サイト
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。