大岡 忠固(おおおか ただかた)は、江戸時代後期の大名。武蔵岩槻藩第6代藩主。大岡忠房家9代当主。寛政5年12月14日(1794年1月15日) 、伊勢八田藩第3代藩主・加納久周の五男として生まれる。初めは鈴木大学と名乗っていたが、その後、三兄である岩槻藩主の大岡忠正には男子がいないため、その養子となり、大岡忠固と名乗った。文化13年(1816年)8月28日に忠正が亡くなると、大岡家の家督を相続して、岩槻藩主となる。文政4年(1821年)4月、日光祭礼奉行、翌文政5年(1822年)、奏者番を歴任。天保7(1836年)8月、米価昂騰で領内で百姓一揆が起きたが、これを何とか沈静させた。同年9月、このような中で若年寄に栄進し、天保15年(1844年)5月、江戸城本丸の普請奉行を務め、その功により、3000石を加増される。またアヘン戦争で清が敗戦した影響により、幕命により江戸湾の警備のために大砲や小銃を鋳造し、藩領であった上総、安房に海上警備のために藩士を派した。これにより藩の財政が逼迫した。嘉永5年(1852年)、江戸に出向した公卿の接待役を勤め、江戸市中を案内し、その出来事を『船橋紀行』にまとめた。同年に病死。家督は三男の忠恕が継いだ。
出典:wikipedia
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