第16師団(だいじゅうろくしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。兵団文字符は垣。軍隊符号は16D。1905年(明治38年)7月18日に京都で編成された帝国陸軍の師団である。日露戦争で日本は既存の師団総てを動員した為、本土駐留師団がなくなる事態となった。そこで第16師団を含む4個師団が創設された。第16師団の他、1905年(明治38年)4月1日に第13師団と第15師団が、同年7月6日に第14師団が編成されている。第16師団は直ちに満洲に派遣されたが、戦闘は概ね終結しており9月5日には講和条約(ポーツマス条約)が締結された為、実戦には従軍していない。1907年3月28日、師団司令部は大阪府泉北郡高石村に移転した。1908年10月30日、師団司令部が京都府紀伊郡深草村へ移転し、同年11月1日より事務を開始。1918年7月1日、兵器部が師団司令部内に移転し事務を開始。1919年(大正8年)から師団は満洲駐剳を命ぜられた。その後一旦帰国するが、1929年(昭和4年)と1934年(昭和9年)にも満洲駐剳任務に就いた。1935年(昭和10年)6月28日深夜からの豪雨で京都市内を流れる鴨川など河川が氾濫、堤防決壊284ヶ所、50ヶ所以上の橋が流され、市内の浸水面積は37.2平方kmにも及んだ。京都府の救援依頼を受け歩兵や師団工兵隊など1,023名が出動、救助活動・堤防防備・架橋の復旧に従事した。29日午前10時に竹田堤防決壊防備と救助に出動。さらに七条大橋防備・淀方面・勧進橋方面・鴨川沿岸などに配置、翌30日には倒壊した五条大橋の仮橋の仮設・観月橋下流の護岸工事に出動した。1937年(昭和12年)7月に支那事変(日中戦争)が勃発すると、師団は西尾寿造中将の第2軍戦闘序列に編入され華北戦線に投入、同年11月上海派遣軍隷下上海戦線に転じ南京攻略戦に参戦した。1938年(昭和13年)1月から北支那方面軍隷下徐州会戦に参戦し、同年7月再び第2軍隷下となり武漢作戦に参戦、12月には第11軍に編入された。翌1939年(昭和14年)8月に復員する。この時豊橋の歩兵第38連隊が新設の第29師団に編入されることになり、第16師団は三単位制師団に改編された。また、それまでは第16師団は京都を衛戍地とする常設師団であったが、1940年(昭和15年)7月に師団の衛戍地が満洲となり、永久駐屯することが決まった。大東亜戦争(太平洋戦争)では1941年(昭和16年)11月6日に第14軍戦闘序列に編入され、緒戦のフィリピン攻略に参戦し、マニラ陥落後フィリピンに駐屯した。1944年(昭和19年)8月からは第35軍隷下となりレイテ島に移駐、この年の10月20日に連合国軍がレイテ島に上陸し、大本営はレイテ島での決戦を予定したが第16師団は壊滅した。当初13,000名で臨んだレイテ決戦も生還者は僅か620名で、3人の連隊長が戦死しており、師団長牧野四郎中将も1945年(昭和20年)8月10日に自決した。師団司令部ならびに一部の隷下部隊・施設は京都市伏見区内に設置されていた。1908年(明治41年)に完成した師団司令部庁舎および周辺の陸軍用地は、戦後の1948年(昭和23年)に学校法人聖母女学院が聖母女学院本館(法人本部)として、また師団練兵場は龍谷大学・京都府警警察学校が利用する。師団隷下部隊である輜重兵第16連隊の門柱・門・哨舎は2010年(平成22年)、市民運動によって京都教育大学敷地内に移設されたものの、師団司令部門柱などは同年前後頃に、1918年(大正7年)築の師団長官舎は1990年代末に解体されている。京阪電鉄藤森駅は開業当初師団前という名称であった(1941年(昭和16年)に現名称に改称)。 この藤森駅付近の師団街道・第1軍道・第2軍道・第3軍道と呼ばれる道路や、琵琶湖疏水に架かる師団橋という橋梁も第16師団の設置に伴い整備された(橋脚には帝国陸軍の象徴である星章(五光星)の意匠が施されている)。また京阪電鉄が開通時、踏切が訓練の支障になると京阪本線を跨ぐ高架橋が3箇所に設置された。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。