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第17師団 (日本軍)

第17師団(だいじゅうななしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。日露戦争後の1907年(明治40年)と、支那事変勃発後の1938年(昭和13年)に編成された。第17師団は1907年(明治40年)11月、第18師団と共に創設された。同年12月15日、師団司令部は岡山市東田町蓮昌寺内で事務を開始。1908年(明治41年)3月4日、さらに司令部を御津郡伊島村字上伊福に移転した。1915年(大正4年)3月18日、師団司令部留守部を岡山に設置し、同年5月26日、師団司令部は遼陽に移転して2年間満州に駐屯。1917年(大正6年)5月10日、師団司令部が岡山に帰着し11日から事務を開始。1918年7月10日、兵器部が師団司令部内に移転し事務を開始。1920年(大正9年)からの第一次世界大戦後の不況や、シベリア出兵を強行した事などから財政が逼迫し、日露戦争後拡大してきた軍備を削減する事になり、1922年(大正11年)から三次に亘って軍縮され、1925年(大正14年)に加藤高明内閣で行われた所謂「宇垣軍縮」によって4個師団の廃止が決まり、第17師団も第13・第15・第18師団と共に廃止された。日中戦争が起こると1925年(大正14年)に廃止された師団番号を利用し復活した。これを第二次編成と呼ぶ。第26師団に引き続き1938年(昭和13年)4月に、第15・第17・第21・第22・第23の5個師団が編成された。これら5コ師団は、関東軍の後方治安維持を目的に編成された歩兵三個連隊編制の警備師団である。この5個師団増設は、内地衛戍師団を満洲に交代で派遣する負担軽減するものであったが、常備師団の新設には帝国議会の協賛を必要とすることから、国防機密を明白にすることになるので実行が停滞していた。新設予定師団は第21・第22・第23・第24・第25師団であった。図らずも支那事変が勃発し臨時軍事費が計上されたので、公表しない動員部隊として編成する方法がとられることになった。新設師団は駐兵権保有地域への配備を目的とすることから警備師団と呼ぶが、内地衛戍の常設師団が補充を担任する。第17師団は留守第10師団の編成担任であった。第17の師団番号は、従来第10師団(姫路)の特設師団番号に計画されていたが、支那事変臨時軍事費の特別計上に便乗して常設師団5個を増設する計画が実行され、軍縮廃止師団を永久的な常設師団として第15師団とともに第17師団が編成された。これにより第10師団の特設師団番号は第110師団に変更された。これにより新設予定師団の内、第24・第25師団の師団番号が前詰めされ、第15・第17師団の番号とされた。(この時すでに第13師団と第18師団は特設師団として1年前に出征していた)この新編成の5コの警備師団は、関東軍に配備される前に実戦訓練の為に中国戦線への投入が行われた。満州北部のハイラルに駐屯していた騎兵集団を中国戦線に転用される事が決定した為、第23師団だけ直接満州へ派遣された。実戦訓練をの為に中国戦線への投入された第17師団含むの4コ師団は、中国戦線が広がり続けたため抜けられなくなり、ついに本来の編成目的である満洲に行くことは無かった。師団は中国大陸に渡り中支那派遣軍戦闘序列に編入、一部部隊が武漢作戦に参戦する。その後師団は占領地警備、治安作戦に従事した。師団捜索隊は1940年7月に復帰、所属した装甲車中隊は歩兵団装甲車中隊となり、所属騎兵は各歩兵連隊に分配された。これは中国戦線の現状に合わせた改正であり、一部を除く在支師団に同様の編成改正が行われた。太平洋戦争開戦後も中国に駐屯した。1943年(昭和18年)9月に南方へ転用され、ニューブリテン島に渡った。第17歩兵団司令部・歩兵第81連隊など隷下部隊の約1/3はブーゲンビル島へ分遣され、1944年(昭和19年)7月に独立混成第38旅団へ改編されて師団から除かれた。第8方面軍隷下に移った師団はニューブリテン島中心地のラバウルやツルブにて連合軍の攻撃に耐えてニューブリテン島の戦いを展開、1945年(昭和20年)8月の終戦を迎えた。持久戦の間に2個混成連隊と師団捜索隊(2代目。第51師団捜索第51連隊の残存人員で編成)が新たに編合された。

出典:wikipedia

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