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中国共産党

中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう、簡体字: 、拼音: 、)は、中華人民共和国の政党。共産主義の実現を最終目標としている。略称は中共(ちゅうきょう)。2012年6月で8260.2万名の党員を抱える世界最大の政党である。中華人民共和国憲法では第1条に「中華人民共和国は労働者階級の指導による労農同盟を基礎とした、人民民主独裁の社会主義国家である」()と規定されているだけでベトナム憲法やキューバ憲法のように共産党が国家を指導するとは直接明記はされていないが、2009年に賈慶林・中央政治局常務委員が人民日報に寄せた『中国の特色ある社会主義路線の上で、中国共産党の指導する多党協力と政治協商制度を不断に整備し、発展させる』によれば、「中国共産党の指導する多党協力と政治協商制度は、西側の二大政党制や多党制のような、一方が政権に就けばもう一方が下野する権力争奪型の政党関係とも、一党制のような権力独占型の政党関係とも異なり、民主的に協議し、互いの心の底まで打ち明けて親しく交わる、斬新な協力型の政党関係なので」あり、「各民主党派と無党派の人々は、中国共産党による指導を自ら進んで受け入れ、中国共産党と親密に協力し、中国の革命・建設・改革事業に共に力を尽くしているのである」と主張されている。1919年5月4日、中国共産党の先駆団体である「マルクス主義研究会」は、反政府・反日運動である五・四運動に参加した。1921年7月に、コミンテルンの主導により、北京大学文科長の陳独秀や北京大学図書館長の李大釗、元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、上海にて中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)を開催、結成されたとされる。一般には、創立党員は57人とされるが、57人の名前が明確に示された文献はなく、本当に57人であるかは定かではない。 結成時に上海に集まった党員は13人であるとする説もあるが、公式記録では、12人とされている。また、顧問として、オランダ共産党政治局員が招聘されている。なお、創立党員で中華人民共和国建国まで生き残り、かつ、死ぬまで「中国共産党」内での名誉を保ちつづけた者は毛沢東と董必武のみとされる。中華民国の統治期には、コミンテルンの代表者であるマーリン(ヘンドリクス・スネーフリート)の指導により中国国民党と協力し(1924年の第一次国共合作)、その後敵対した(1927年の蒋介石による4・12クーデター(上海クーデター)により国共分裂)。一方で、ソ連でのスターリン派とトロツキー派の抗争が中国共産党にも飛び火し、トロツキー派のレッテルを貼られた陳独秀は、第一次国共合作を主導したとして責任を問われ失脚する ()。代わって選出されたのが瞿秋白であり、やの指導により広州起義を起こすが失敗し、妄動主義による失敗として批判され失脚する。代わって選出されたのが向忠発であるが、実権はプロフィンテルンと連絡を取る李立三が握っていた。ソ連側は、「国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱める事が最も必要」だとしていた。結党当初は、コミンテルンの指導が強く、また、ソビエト連邦への留学生が「中国共産党」の中心勢力であった。 コミンテルンは広大な農村社会を抱える中国の特殊性を理解せず、大都市の労働者による武装蜂起を中国革命の基本路線と考えた。当時の中国共産党指導部はコミンテルンの指導に忠実に従っただけなのだが、建国後以降の中国共産党は、当時の共産党指導部に対して第一次国共合作期はその関係に固執しすぎたとし、また国共分裂後の初期の暴動路線に対して極左冒険主義に走りすぎ失敗を犯したとの評価をしている。 中国共産党は数多くの都市暴動を画策したが、中華民国南京政府の軍隊により度重なり鎮圧され、十分な抵抗勢力とはなりえなかった。このような中で毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。そうした農民を対象とした社会主義化の動きは、それまでのマルクス主義やレーニン主義のように労働者階級を中心とするものとは異なっていた。当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、農民の支持なくして革命の実現はありえないと毛沢東は考えた。中華民国南京政府の軍隊、警察の捜索の及ばない省境界の山地を根拠地とした毛沢東らは「有土必豪無紳不劣 (土地を有するは必ず横暴で、紳の劣らぬこと無し)」として、小作人を扇動したため、小作人は解雇され共匪となった。1930年6月、中国共産党は、直ちに蜂起武装し一省又は数省の重要省区の首先的勝利を目指す李立三コースを取る。1931年、毛沢東らは江西省瑞金において「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立した。なお、コミンテルンからの資金の授受は、上海にあるドイツ商のを介して行われていると目されていた。日中戦争前に、上海に設立されたプロフィンテルンのアジア太平洋支部である太平洋労働組合書記局書記のイレール・ヌーランが逮捕されるヌーラン事件が起き、中国国民党により向忠発が銃殺され、共産党幹部の逮捕が続くと、李立三コースを批判していたコミンテルン極東局を中心とするパーベル・ミフ派の勢力が強くなった。共産党軍は中国国民党軍の包囲攻撃に抵抗することができず、1934年には瑞金の中央根拠地を放棄して逃避行を始めた(後に長征と称される)。その過程の1935年に開催された遵義会議において毛沢東の指導権が確立したと言われる。逃避行は奥地でソ連に近い陝西省延安に拠点を構えることで終わった。1933年5月、ソ連のトロツキストと繋がりを持つとされる元ドイツ参謀のハンス・フォン・ゼークトが、中華民国の軍事顧問となった。1934年12月、日本人を中心に運営されていた満州国は、元白軍司令官のグリゴリー・セミョーノフの参加する反ソ組織の白系露人事務局を設立し、1935年3月には、ソ連より中東鉄道及びその付属地を買収した (北満鉄道讓渡協定)。1935年5月2日、ゼークトの提案に基づき中華民国秘密警察の藍衣社が親日要人へのテロ事件を起こしたため、日本は抗議し、1935年6月27日、日本と中華民国は梅津・何応欽協定を結び、その協定の中でソ連の偵察所であった張家口の徳華洋行の妨害工作を企てた。それらに対し、ソ連は、1935年7月から8月にかけてモスクワで第7回コミンテルン世界大会を行い、コミンテルンは日本やドイツ等を共産化の主な攻撃目標に定めた。中国共産党代表団(ミフ派)は国共合作を呼びかける八・一宣言を行い、1936年の西安事件(西安事変)、1937年盧溝橋事件、中ソ不可侵条約を経て、国民党とのいわゆる第二次国共合作を成立させた。日中戦争の際には八路軍などを編成して、華北を中心とした解放区を拠点に日本軍との正面衝突は避けて力を温存させた。また、蒋介石を通して、ソ連との不可侵条約締結などで、反共から容共化に変えさせた。ソ連において1934年から続く内務人民委員部により、英独日と関係を結んだ右翼=トロツキスト・ブロック(資本主義の復活を企む右翼の社会革命党(エス・エル党)及び革命的祖国敗北主義により再共産主義革命を企むトロツキストが組んだもの)とされた人民が大粛清されるなか、太平洋労働組合書記局はウラジオストクでプロフィンテルンの巻き返しを図るが、1937年にプロフィンテルンが解散となる。1936年、パーベル・ミフは、『中國共産黨 英勇奮鬪的十五年』を出版するが、1938年7月、КРТОへ参加したとしてソ連の内務人民委員部に処刑される。1940年8月には、トロツキーも暗殺される。1940年10月から始まるドイツのモスクワ侵攻に対し、アメリカはソ連の支援を始めた。更に、アメリカはソ連への支援の際に、ソ連に対して「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」と主張していたほか、1941年7月20日にはアメリカによる支援が内戦に使われることは許容できないとして、中国国民党に中国共産党との和平を促す声明を発表した。1942年より、毛沢東は整風運動を行い、ミフ派を中心とするコミンテルンの影響を排除した。1943年、コミンテルンが解散となる。1945年に日本が第二次世界大戦で敗北し、セミョーノフが捕らえられ、中国国内の日本軍隊が全面降伏すると、それまでの中国国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。内戦を回避したいアメリカ等の意向もあり、毛沢東と蒋介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入した。満州を占領したソ連の後押しにより東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的には国民政府を倒して中華人民共和国を建国した。国民政府は根拠地を台湾へ移した。1945年12月、ジョージ・C・マーシャル将軍はトルーマン大統領から中国における全権特使に任命され、13ヶ月中国に滞在したが、ソ連とアメリカで世界分割を行う密約を行っていた外交問題評議会(CFR)、太平洋問題調査会(IPR)の勢力に組した彼は、内戦において本来劣勢であった共産党が優勢となるような行動を意図的に取った、と言う主張があり、下記の点が指摘されている。この疑惑は、後にアメリカ政界でジョセフ・マッカーシー議員によるマッカーシズム(赤狩り)にまで発展した。1949年10月1日には中華人民共和国の建国を北京で宣言した。中華人民共和国の建国によって政権政党となった中国共産党は朝鮮戦争での軍事介入やアジア・アフリカ会議への参加など積極的な外交活動を行った。当初、ソ連をモデルとして社会主義建設が始まったものの、1956年のニキータ・フルシチョフによるスターリン批判以降はソ連共産党との関係が悪化、1960年からは公開論争にまで発展し(中ソ論争)、武力衝突までに至った。中ソ論争の頃から中国共産党は独自路線を歩み始めるが、党内部では反右派闘争、大躍進政策などの路線闘争、権力闘争は絶えず、毛沢東が自らの実権を回復するために1966年に発動した文化大革命でその混乱は極に達した。毛沢東批判さえしなければ、共産党ですら批判してもよいということになり、これまで政治的な発言が制限されてきた民衆の欝憤が一気に爆発した。全国各地に張り巡らされていた既存の党委員会は解体され、代わって革命委員会が設立されるようになる。国家主席として大躍進の失敗後、経済の調整に取り組んできた劉少奇は毛沢東から打倒すべき筆頭とみなされ、失脚の後に獄死した。鄧小平も失脚し、地方で労役に従事させられた(1973年に復帰)。また、1971年、毛沢東の後継者と第9回党大会で指名された林彪およびその側近は毛沢東暗殺を画策するも失敗し、飛行機でソ連へ逃亡途中、モンゴルで墜落死した(林彪事件)。内部問題とソ連との敵対関係(ダマンスキー島事件を参照)で危機感を強めた政権は1971年にアルバニア決議で国際連合に加盟して国際社会に参加し、1972年にはアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンの訪中受け入れや、日本との国交回復を実現するなどの外交政策の大転換を行った。1976年に毛沢東が死去すると、文化大革命推進派は力を失い、毛沢東の妻・江青など文革派の四人組は逮捕され、華国鋒体制が成立し、1977年には文革の終結が宣言された。1978年12月の第11期3中全会では、最終的に文革期の失脚から返り咲いた鄧小平の指導体制が確立し、それまでの革命路線から改革開放、現代化路線へと大きく転換した。1981年には文化大革命を完全に否定、毛沢東の誤りを一部認めた(「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」)。改革開放の流れの中で党の指導体制は改革派と保守派に分れ、1980年代後半からは党機構と行政機構の分離も盛んに議論されるようになったが、1989年に起きた天安門事件後は保守派が息を吹き返し、党の独裁指導体制が再び強化された(趙紫陽がこの事件で事実上失脚した)。 しかし、それによってこれまで続いてきた経済成長がスピードダウン、1992年冬に行われた南巡講話の中で鄧小平は「改革開放を加速せよ」と指示を出し、同年10月の第14回大会では社会主義市場経済が打ち出された。鄧小平死後の1997年9月の第15回党大会では、鄧小平理論を指導思想と確立し、社会主義の初級段階における党の路線が確立されると同時に、名実ともに江沢民時代に入った。2002年11月の第16回党大会では、江沢民が提唱した私営企業家の入党をも認める「3つの代表」思想が規約に明記されるとともに、江沢民から胡錦濤体制へと移行、第3世代から第4世代への世代交代が初めて平和的に(混乱を伴う権力闘争なしに)実現した。2004年9月には、江沢民が最後まで残していた党中央軍事委員会主席の地位も胡錦濤に移り、少なくとも公式には胡錦濤体制への転換が完了した。2020年までにGDPを2000年の4倍とし、「全面建設小康社会(いくらかゆとりのある社会を全面的に建設する)」という目標を打ち出しているが、政治の民主化を遅らせつつ一党独裁体制を継続していけるかが注目されている。 また、私営企業家の入党許可は階級政党から国民政党への脱皮を意味しており、党のあり方そのものが問われる重大事件であった。中国共産党は党における最終目標と最高の理想を、「共産主義の実現」としている(中国共産党規約。第17回党大会で一部改正の上、2007年10月21日採択)。よって、中華人民共和国は現在共産主義を実現するための初級段階として社会主義を行っている。社会主義は共産主義の初級段階であるため、中華人民共和国の政権政党として、党規約に基づいて、国防及び科学、工業及び農業技術の現代化を実現し、国を富ませ強くし、民主的かつ文明的な国を建設することで共産主義の実現を目指している。2007年現在、指導思想として、マルクス・レーニン主義(マルクス主義)、毛沢東思想、鄧小平理論、さらに江沢民が提唱した思想理論「3つの代表」思想と胡錦濤が提出した「科学的発展観」を掲げている。宗教には否定的で、党員は宗教を信仰してはならない上、宗教活動に参加することもできない。文化大革命当時、「宗教はアヘンである」というマルクスの言葉に忠実な紅衛兵によって聖職者は弾圧され、宗教施設は破壊行為により甚大な被害を受けた。文革終了後、民族間関係の緊張を危惧した共産党は宗教政策を修正し、一定程度の宗教活動を保障し、宗教施設も修復されるようになった。党はこれをもって「信仰の自由が保障されている」と主張しているが、依然、「民族分裂主義者」として厳しく糾弾するダライ・ラマの写真を掲げることは禁止され、メッカ巡礼も自由に行えない、キリスト教は党が公認した教会以外は迫害を受けるなど、宗教に対する締め付けは残存しており、あくまでも当局の管理下においてしか宗教活動は行えない。また、2016年2月4日には国務院が「幹部党員は引退後も宗教を信仰してはならない」とする新規定を発表した。中国共産党の最高指導機関は、5年に一度開催される中国共産党全国代表大会(党大会)である。 閉会期間中は大会で選出された中国共産党中央委員会(毎年少なくとも1回開催)がこれを代行する。 中央委員会全体会議は、中央政治局委員、中央政治局常務委員、中央委員会総書記を選出し、中央書記処メンバーを選出する。中国共産党中央政治局と中央政治局常務委員会は党の最高意思決定機関であり、中央委員会総会の閉会期間に中央委員会の職権を行使する。 総書記が中央政治局会議、中央政治局常務委員会会議を招集する。 現在(第18期1中全会選出)の政治局委員は25人。 うち、政治局常務委員は習近平(総書記)、李克強、張徳江、兪正声、劉雲山、王岐山、張高麗の7人で、党の最高指導部を形成している。 毛沢東時代には合議制が形骸化し、毛沢東の恣意的な決定が頻繁になされた。 鄧小平時代になっても、こうした傾向は継続したが、2015年現在では改められている。中国共産党中央書記処は、中央政治局と中央政治局常務委員会の事務処理機関。総書記が中央書記処の活動を主宰する。 2012年11月現在、第18期中央書記処の書記は劉雲山ら7人。中国共産党中央軍事委員会は、国家中央軍事委員会と一体となって人民解放軍を指揮する軍事の最高機関。事実上、中国人民解放軍は党が指導する軍隊である。 2004年9月以降の委員は11人で、うち主席は習近平、副主席は範長竜、許其亮の2人。中国共産党中央規律検査委員会は、党の規律検査を担当する機関。委員は全国代表大会で選出される。書記は王岐山。党の直属機関として、組織部、宣伝部、統一戦線工作部、対外連絡部、弁公庁、政法委員会、政策研究室、台湾工作弁公室、中央党学校、人民日報社など20の機関が設置されている。党の地方組織は、地方各級ごとに代表大会、党委員会、常務委員会、書記などが置かれている。 中央と同じく、任期は5年。派閥名称は通称。指導部には団派、上海幇、太子党などの派閥がある。ロイター通信のデータベース「コネクティッド・チャイナ」によれば、左記の3派閥のほかに清華大学閥がある。中国共産党員は中国社会のエリートであり、行政、立法、司法、軍、大衆組織など、社会のあらゆる部門に末端組織である党組を設け、指導している。共産党員に成るためには厳格な審査があり、一般の人は簡単にはなれない。一つの途としては、学校で学業優秀だったり芸に秀でるなどして、選抜されて共産党青年団メンバーになり、その活動結果と党員の推薦により、党員になれる途がある。そのエリートでもイデオロギーと政治活動よりは拝金主義を優先する党員がいて、独裁体制の弊害が出ている。世界最大の党員を抱えるだけに、党員による汚職・収賄などの腐敗が深刻化している。2012年10月、規律検査委員会の賀国強書記が、2007年11月から2012年6月までに汚職や職務怠慢などで66万人以上の党員を処分し、このうち2万4000人以上が刑事処分のため司法機関に移送されたことを明らかにした。また、2015年1月から11月には、税金の無駄遣いなどを戒めた「8つの規定」に違反したとして、党幹部など4万3千人が摘発され、2万9千人が処分された。党幹部の中には子弟をアメリカ、カナダなどに移住させ、いつでも海外へ逃亡できるよう準備している者も少なくない(→裸官)。また、1,000人以上の幹部が二重国籍を有している。北京市検察機関は、90年代半ばから、2008年までに、2万人弱の汚職官僚が海外逃亡をし、その際持ち去られた国家資金は8000億元(約12兆円)に達したと述べた。このような事に対して胡錦涛政権は幹部の国外逃亡を事前に阻止するため、幹部のパスポート管理や不正の疑いがある者に対して出国制限を課す、既に外国に逃亡している者を現地の政府・治安機関に身柄拘束を要請するなどの対策を打ち出している。近年は、遠隔地の農家を貸し切って宴会を開くなど、発覚を逃れる手法が巧妙化している。中国共産党の初期の指導者は、多くが日本への留学経験を持つ。マルクス主義理論家の李大釗や東京生まれの廖承志は早稲田大学で、毛沢東体制で長く首相を務めた周恩来も1917年から1919年まで東京の専門学校(のちの明治大学)で学んでいる。中国共産党の対日政策は1935年の抗日戦争呼びかけに始まる。中国共産党はコミンテルン(ソ連)の指示で、当時の蒋介石政権に抗日戦争を呼びかけて、日中戦争を導いて最後は日本の敗北に至らせた。日本共産党でも中国共産党と協力して抗日運動に協力した例が多く、野坂参三はコミンテルンの日本代表として延安で日本人民反戦同盟を指揮した。第二次世界大戦で日本が敗れると、ソ連軍の協力で中国東北部を支配した中国共産党は、当時は国の政権を担っていなかったが満州国などの日本人指導者層や軍人を戦争犯罪人として拘留した。中国の戦犯管理所に抑留された日本戦犯は合計で1062人、そのうち1017人は1956年に釈放され、日本に帰った。ほかの45人は1964年4月に全部釈放された。日本に帰った「戦犯」たちは中国帰還者連絡会(中帰連)を結成し、「中日友好」に一役買った。 現地に留まった日本人の中には、国共内戦で共産党軍に協力し、中華人民共和国成立後も残留する者もいた。 ただし、文化大革命が始まると残留日本人の多くは激しい批判の対象となり、帰国する者も現れた。 また、廖承志などの党内知日派も自己批判を要求され、ほとんど失脚した。日中共産党の関係は、1950年代前半の日本側の党分裂時代でも維持され、中ソ対立でも日本共産党は当初中華人民共和国側を支持した。 しかし、インドネシアの9月30日事件後の1966年に訪中した日本共産党書記長 宮本顕治は毛沢東と意見が対立し、その後は両党機関紙での激しい非難合戦が続いて、両党の関係は断絶した。日本側の親中派は「日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)などを結党した。 一方、日本社会党との関係は委員長 浅沼稲次郎が1959年に「米帝国主義は日中人民共同の敵」と述べたように、文化大革命時代も相互自立の関係を維持した。 社会党には「野党外交」を展開できるメリットがあったともいえる。1972年に日中両国の国交が回復し、文革が終結すると、廖承志の復権(中日友好協会の初代会長へ就任)や両国指導者の相互訪問の増加などで中国共産党と日本社会との関係は再び深まり、自由民主党や公明党なども対象としてより多層に広がっていった。日本では1995年頃から日本社会党の勢力が後退した。その為中国共産党は日本共産党との和解を模索し始め1998年には日本共産党幹部会委員長(当時) 不破哲三の訪中で両国共産党の関係も正常化した。2005年には、若手幹部が訪日し、両党で理論交流を行うなど、活発な交流を行っている。2015年現在の中国共産党の対日担当者は、党中央委員 唐家璇(国務委員、元外相)などのように、日本と中華人民共和国の間の国交が無い時代の中華人民共和国国内で研修を積んだ世代が中心であり、2010年代後半以降からは再び国交回復後の日本留学者が多く関わってくる事が予測される。日本の報道機関に対しては、朝日新聞などの左派陣営に好意的であり、産経新聞などの右派陣営に批判的である。中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』において、中国共産党が「右翼」と批判する安倍晋三首相に関する言説で、反安倍政権の論調をとる朝日新聞に対して賛辞を送り、安倍政権の「暴走を牽制する役割」を期待する記事を掲載している。結成から1949年までのものを以下に掲げる。日付は開始日、カッコ内は開催地。

出典:wikipedia

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