セヌリ党(セヌリとう)は、韓国の保守政党。1997年にハンナラ党として結成され、2012年2月13日に現在の党名に改称された。発足直後の大統領選挙で敗れた後、2008年までの10年間野党であったが、同年2月25日に李明博大統領が就任したことで与党に返り咲いた。2008年4月から2016年4月までは議会第一党であったが、2016年4月12日の総選挙で敗北し議会第二党に転落。2013年2月25日に就任した朴槿恵大統領の与党である。前身のハンナラ党は、盧泰愚・金泳三政権で与党だった民主自由党を前身とする新韓国党と、金大中が結党に関わりソウル市長を務めた趙淳が率いていた民主党が1997年11月21日に合同して結成された。離合集散が頻繁である韓国政党のなかでは第三共和国・第四共和国における与党である民主共和党(1963年-1980年)に次ぐ長い歴史を有していたが、2012年2月13日の党全国委員会で党名がセヌリ党に改称された。旧党名の「ハンナラ」とは「大きな国」「一つの国」などを意味し、新党名の「セヌリ」とは「新しい世の中」を意味する。政治思想としては朴正煕・全斗煥といった軍事政権の流れを汲む親米保守系議員が多く、比較的知日的とされ、まえの盧武鉉政権を左翼と呼び対立していた。民主正義党→民主自由党→新韓国党→ハンナラ党時代から一貫して韓国南東部の嶺南地方(釜山・大邱・蔚山・慶尚北道・慶尚南道)を強固な支持基盤としている。ソウルでも富裕層が多いとされる江南地区でも支持基盤を構築している。広域自治団体(17市道)では、京畿道や釜山広域市など8箇所で党公認の首長を有している。党内は2007年の大統領候補予備選挙で候補者の座を争った李明博大統領に近いグループ(親李)と朴槿恵元代表に近いグループ(親朴)の2大グループに大きくわけられ、両グループの葛藤が指摘されていたが、2012年総選挙では親朴派が多数を占める結果となり、黄祐呂代表以下党最高指導部9名中8名が親朴系で占められた。結成直後の1997年大統領選挙では当時の最大野党である新政治国民会議(国民会議)の金大中候補に僅差で敗北し、ハンナラ党は与党の地位から転落した。その後、2000年の総選挙において院内第一党の地位を維持し、2002年の地方選挙で李明博がソウル市長選で当選するなど勝利を収めたが、同年12月の大統領選では前回に引き続いて立候補した李会昌が僅差で、新千年民主党(国民会議の後身政党)の盧武鉉候補に敗れる結果となった。2004年3月12日に盧武鉉大統領のウリ党支持発言や不正資金問題などを理由に大統領弾劾訴追案を国会に提出し可決させた。しかし、国民からの強い反発を受けて党支持率を大幅に減らし崔秉烈(チェビョンヨル)代表(当時)は退任することになった。起死回生を狙うべく3月23日に臨時党大会を開き、保守層に人気のある朴正煕元大統領の娘である朴槿恵(パク・クンヘ)を新しい代表に選出した。その結果、2004年4月の第17代総選挙では、党の地盤である慶尚道で健闘したこともあり121議席を獲得、第一党の座はウリ党に譲り渡したものの議席減を最小限に抑えることができた。総選挙後、盧武鉉政権の経済政策などに対する批判を背景に、翌2005年4月30日と10月26日の補欠選挙で全勝、2006年の統一地方選挙では広域団体長選挙16市道中12市道で勝利、広域議会選挙は首都圏地域区で全勝するなど圧勝し、着実に党勢を回復させつつ次期大統領選へ向け地歩を固めた。そして、2007年12月19日に行われた大統領選挙で、与党・ウリ党から改編した新党である大統合民主新党の鄭東泳(チョン・ドンヨン)候補らに圧倒的大差をつけて李明博が当選。翌年の2008年2月25日に正式に大統領に就任し、10年ぶりに与党に復帰した。李明博大統領の就任直後に行われた総選挙では、李明博と大統領候補の座を巡って争った朴槿恵元代表に近い親朴派の議員の多くが党公薦を得られず、反発した議員が新党・親朴連帯や無所属で出馬する事態となった。そのため党の強固な地盤である慶尚道で伸び悩み、当初予想されていた180議席近くの大勝には至らなかったが、ソウル市を含む首都圏で支持を伸ばし、過半数(150議席)を上回る153議席(地域区131議席+比例区22議席)を獲得した。しかし6月に行なわれた広域自治体議員及び基礎自治団体長と議員を選出するための補欠選挙では、米国産牛肉の輸入再開を強行したことに対する李明博大統領への批判が高まった影響で、敗北した。7月3日に行なわれたハンナラ党代表選挙で鄭夢準(チョン・モンジュン)を破って代表に当選した朴熺太(パク・ヒテ)代表は、4月総選挙で公認を外され、親朴連帯や無所属で選挙を戦って当選した親朴派議員の無条件復党を認めることを正式決定し、同月16日に親朴連帯や無所属の議員19人がハンナラ党に入党した。これにより、国会における議席数は171人に増え、安定多数を確保した。2009年4月の国会議員再選挙では、民心の動向を計れる意味において重要な地域である首都圏の仁川広域市富平区乙選挙区で民主党候補に、ハンナラ党の強固な地盤である慶尚道の蔚山広域市北区と慶州市でも進歩新党候補と親朴系無所属候補に破れ、全敗した。9月7日、朴熺太代表が10月に行われる国会議員再選挙に出馬するために党代表の座を退き、後任代表に代表選挙で次点だった鄭夢準最高委員が党憲・党規に基づいて就任した。その鄭代表が就任後の10月に行われた国会議員選挙では、慶尚南道梁山市で朴熺太が当選するなど、2箇所での勝利に留まり、民主党に惜敗した。11月20日には、党結成12周年の記念式が行われ、趙允旋(チョ・ユンソン)報道官が「ハンナラ党は中道保守の代弁者としての場所を守り続けて来た。中産層を堅固にし庶民と交わる、頼もしい政党」になると述べたが、党内における親李系と親朴系の対立や、世宗市の建設問題などで党内葛藤が続いている中での式となったため、簡素に行われた。李明博政権の中間評価となった2010年6月の地方選挙は当初、広域団体長選挙において8~9箇所で首位に立つなど、優位な戦いを進めていた。しかし、李明博政権の政権運営に対する反発と3月に発生した韓国海軍駆逐艦「天安号」の沈没事件を巡り、北朝鮮に対して強硬姿勢を取ったことに不安を戴いた20~40代の有権者を中心に民主党など野党勢力に支持が集中し、前回選挙の大幅に下回る結果となった。16市道の自治団体長(市長・道知事)を選出する広域団体長選挙では、支持率で圧倒的に優位に立っていたソウル市長選挙で呉世勲候補が、民主党の韓明淑候補と激しいつばぜり合いを演じ、0.6%の僅差で辛うじて再選。またハンナラ党支持が強い地域であった江原道や慶尚南道で民主党と民主系無所属候補がハンナラ党候補を破って当選するなど8箇所で勝利した民主党を下回り、6箇所の当選に留まった。また基礎団体長選挙でも民主党が91箇所で勝利したのに対し、83箇所の当選に留まった。16市道の広域議会議員を選出する議会選挙でも地域区で民主党が第一党となった。ハンナラ党が地方選挙で敗北した結果を受け、鄭夢準代表を初めとする党指導部は大勢が判明した3日午前に総辞職を表明し、党大会が開催されるまでは金武星院内代表を委員長とする非常対策委員会を構成して党運営にあたることを明らかにした。前・盧武鉉政権の公約であった中央政府機関を忠清道地域に移転する世宗市計画を巡り、李明博政権は当初の計画案を変更し行政機関移転を白紙化し、企業や研究機関を新たに誘致する修正案を推進していた。これに対し、前政権与党の流れを汲む民主党や忠清南道に強い支持を有する先進党のみならず、与党であるハンナラ党内でも朴槿恵を支持する親朴派を中心に当初の計画案を推進すべきであるとの声が強く、激しく対立していた。こうした中6月16日、国会の国土海洋委員会において世宗市修正案は反対多数で否決、続く6月29日には国会本会議でも賛成105票、反対164票、棄権6で否決された。本会議の採決では野党のみならず、与党であるハンナラ党内の親朴派議員も反対票を投じたことで、党内における親李系と親朴系の亀裂が明らかとなった。7月14日に行われた第11次全党大会において党幹部選挙が実施され今後2年間、党を率いる新たな党代表として親李派の安商守(アン・サンス)元院内代表が当選を果たし、親李主流派が党権力を掌握することとなった。代表就任直後の28日に行われた国会議員再補選では、8選挙区中5選挙区で勝利し、統一地方選挙における敗北の後遺症から克服することが出来た。しかし、2011年4月27日に行われた国会議員及び自治団体長などの再補選にてハンナラ党の伝統的票田であった京畿道城南市盆唐区乙で元党代表の姜在渉が民主党代表の孫鶴圭に敗れたのを初め、江原道知事選挙でも民主党候補に敗れるなど敗北した。この結果を受け28日、最高委員全員の辞任を表明し党非常対策委員会の設置を決定した。非常対策委員会の構成と代表権限代行の座を巡って、親李系と新主流派(親朴派と若手議員が連携)の間で主導権争いが繰り広げられた。結局、権限代行は院内代表が担うことになり、非常対策委員会のメンバーも当初の13名から19名に増やされ、親朴系と若手が多数を占めた。5月7日に行われた院内代表選挙では非主流派の黄祐呂(ファン・ウヨ)が親李派の安炅律(アン・キョンリル)を決選投票で破って当選を果たした。7月4日に行われた全党大会にて最高委員選挙が行われ、代議員投票と世論調査を合算した有効投票の内25%余りを獲得した洪準杓議員が新代表に選出され、2位以下の4候補もそれぞれ最高委員に選出された。選挙の結果、親李系が支援した候補が4位に留まった反面、親朴系候補が2位で当選するなど、親李系が没落し親朴系が躍進し、党の主導権は親朴系と小壮派が連合する新主流派が握った。8月にソウル市における無償給食実施範囲を問う住民投票が不成立となった責任を取るかたちで呉世勲ソウル市長が辞職した結果、10月26日の統一補欠選挙にてソウル市長選挙が行われることになった。選挙戦は事実上、ハンナラ党候補の羅卿瑗党最高委員と民主党を中心とする野党勢力の統一候補である朴元淳弁護士(無所属)との一騎討ちとなった。ソウル市は有権者の2割強を占め、市長選挙での結果が翌2012年に行われる総選挙と大統領選挙の動向を判断する試金石となるため、ハンナラ党は羅卿瑗候補の当選に全力を注いだが、朴元淳候補が勝利した。ソウル市長選挙にて野党統一の無所属候補に大差で敗れた結果を受け、来年行われる総選挙をこのままでは戦えないとの危機感が党内に広がり、刷新を求める声が強まった。11月6日には若手議員が李明博大統領に対して側近の不正行為や成長中心の経済政策撤回などを求める書簡を送った。また12月2日には、先のソウル市長選挙にて中央選挙管理委員会ホームページがハッキング攻撃を受けダウンした事件についてハンナラ党議員秘書が指示して攻撃させていたことが明らかとなり、これを受け党指導部である最高委員5名中3名が辞意を表明、12月9日には洪準杓が代表を引責辞任した。今後の党の行方を巡り混迷の度合いを強める中、12月12日に議員総会が行われ、朴槿恵元代表を委員長とする非常対策委員会を発足させることで意見がまとまった。これにより朴元代表が5年5ヶ月ぶりに党の指揮を執ることになった。しかし、非常対策委員会が主導する党刷新の方向性については、意見がまとまらず派閥間で対立が続いた。12月20日、全国委員会が開かれ、朴槿恵元代表を非常対策委員会委員長に選出した。そして党最高委員の全権が非常対策委員長にゆだねられたことで、朴槿恵が実質的な党代表としての地位を持つことになった。2012年1月26日、非常対策委員会は全体会議を行い党名を変更することを決定した。また4月に行われる総選挙での公認候補を審査する委員会についても3分の2を党外から登用することを決定した。新しい党名については公募を経た上で30日に決定される予定であったが、予想を上回る応募があったため、2月2日に発表されることになった。ハンナラ党の非常対策委員会は2月2日に全体会議を開き、新しい党名をセヌリ党に内定、同時に未来希望連帯と統合することを発表した。同月13日に行われた全党大会担当機構である全国委員会に提起された党名改称と党憲党規改正案が全会一致で承認され、14年のハンナラ党にピリオドを打ち、新たに「セヌリ党」となった。これに先立つ7日には、民正党時代からシンボルカラーとして用いてきた青色に代わり、赤色を新たなシンボルカラーとすることも決定された。セヌリ党発足直後の2012年4月に行われた第19代総選挙の候補者を決める公薦審査では、世代交代と刷新を進めるため現職議員25%の入れ替えという基準を設け、その結果親李系を中心とする多数の現職議員が党公薦から脱落する事態となった。公薦から脱落した親李系の現職議員は強く反発し、一部議員はセヌリ党を離党して無所属や新党から出馬する者もいた。総選挙では朴委員長の地元である大邱市や慶尚北道および江原道で全勝した他、釜山でも18議席中16議席を獲得、忠清道でも善戦した結果、最大野党である民主統合党を大きく上回る152議席(うち比例代表25議席)を獲得、選挙前議席(162議席)から減らしたものの単独過半数を維持することができた。しかし、18日と20日に当選者2人が相次いで不祥事を理由に離党したため議席数は150議席となり過半数を割り込む事態となった。5月15日、京畿道高陽市で行われた全党大会で黄祐呂議員を新代表(代表最高委員)に選出、同時に李恵薫・沈在哲・鄭宇沢・兪奇濬を最高委員に選出した。全党大会前の4日には親李系の重鎮である李漢久議員が院内代表に選出されたことに続き、朴委員長からの信任が厚い黄議員が新代表に選出されたことでセヌリ党は親朴系による体制構築が事実完了したとの評価を受けた。6月3日には指名職最高委員2名として李貞鉉前議員と金振兟元江原道知事が任命された。これにより最高委員を含む最高指導部9名中8名が親朴系となった。12月に行われる大統領選挙に向けた党内予備選には朴槿恵元委員長を初め、任太熙、安相洙など5名が立候補した。8月19日に党員と一般有権者選挙人団による投票が行われ、これに世論調査結果を均等割合で合算する方法で選挙が行われた。翌20日の全党大会で朴槿恵が2位以下に大差をつけて大統領候補に選出された。10月25日、忠清道を主な支持基盤とする先進統一党(4議席)との合併を公式宣言。11月7日の全国委員会で統一党との合併を正式決定し、16日に合併手続きを完了した。これにより国会議席数は150議席から154議席となり、再び過半数を確保した。大統領選挙は、民主統合党候補である文在寅との事実上の一騎討ちとなったが、朴槿恵が僅差で文在寅を抑えて勝利した。2012年大統領選挙で勝利した朴槿恵が翌年2月末に大統領に就任した後の4月に行われた国会議員再補選では3選挙区中2選挙区で勝利し、同年10月に行われた再補選でも2選挙区で完勝した。朴槿恵政権にとって中間評価となる2014年6月の第6回全国同時地方選挙では、4月に発生したフェリー転覆事故における政府の事故対応の不手際から政権に対する支持率が低下し、一時は惨敗も予想されていたが、危機感を抱いた保守層が結集したことが功を奏し、広域団体長選挙では新政治民主連合に差をつけられたものの、基礎団体長選挙や地方議会議員選挙では新政治民主連合を大きく上回るなど、善戦したとの評価を受けた。選挙後の7月15日、全党大会が行われ、代議員・党員の投票と国民を対象とした世論調査に基づいて行われた選挙の結果、非主流派の重鎮である金武星(キム・ムソン)が選出された。また最高委員には得票で2~4位となった徐清源(主流派)と金台鎬(非主流派)及び李仁済(非主流派)の他、女性である金乙東(非主流派)が選出された。なお党代表選挙で大統領に近い主流派候補が敗れたのは異例のことで、与党に対する大統領の影響力低下を指摘する声もでた。地方選挙直後の7月30日に行われた国会議員再補選では15選挙区中11選挙区で勝利する圧勝で、野党の強固な票田とされてきた全羅南道(順天市・谷城郡)で党公認候補が1988年総選挙以来初めて当選、再補選の要とされた首都圏でも勝利した。この結果、選挙前の147議席から過半数議席を7上回って158議席となり、安定した政権運営を行うことが再び可能となった。2015年2月2日、国務総理に内定した李完九院内代表の公認を決める選挙がおこなわれ、非主流派で国会国防委員長のユ・スンミンが、親朴主流派の支援を受けた李柱栄前海洋水産部長官に大差をつけて選出された。これにより、セヌリ党の執行部は金武星代表以下、非朴派が掌握することになり、朴槿恵大統領のレイムダック化が始まったとの見方も出た。2015年4月、4選挙区(3選挙区は統合進歩党解散に因る補欠選挙、残る1選挙区はセヌリ党議員の当選無効に因る再選挙)で投票が行われた国会議員再補選では、朴槿恵大統領側近の裏金疑惑が浮上したにも関わらず、伝統的に野党の地盤とされてきたソウル市冠岳区で27年ぶりに議席を奪うなど、4選挙区中3選挙区で当選を収めて圧勝した。出典:セヌリ党公式ホームページ「(中央党)」(2016年8月20日閲覧)。 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出典:wikipedia
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