武藤 信義(むとう のぶよし、1868年9月1日(慶応4年7月15日) - 1933年7月27日)は、日本の陸軍軍人。元帥、陸軍大将、正二位勲一等功一級男爵。関東軍司令官兼駐満大使兼関東長官・教育総監・軍事参議官・東京警備司令官等を歴任した。慶応4年(1868年)、佐賀藩士・武藤信直の次男として生まれる。教師を志して佐賀師範学校に入学するも、失望して中退したのちは陸軍を志して陸軍教導団へ入団する。卒業後、陸軍歩兵二等軍曹(後の伍長に相当する。)に任官。陸軍士官学校を明治25年(1892年)7月23日卒業。翌年3月13日に陸軍歩兵少尉に任官。卒業後、歩兵第24連隊小隊長として日清戦争に出征。戦後は陸軍大学校に入校。明治32年(1899年)、第13期の首席の成績を修めて恩賜の軍刀を授けられる。日露戦争における鴨緑江会戦勝利の功により、鴨緑江軍参謀に進む。日露戦帰還後は、ロシア公使館付武官補佐官、明治41年(1908年)12月21日に参謀本部欧米課長。明治44年(1911年)1月26日に陸軍大佐、大正元年(1912年)12月18日から近衛歩兵第4連隊長、大正4年(1915年)4月10日から参謀本部作戦課長を務める。大正5年(1916年)5月2日陸軍少将、歩兵第23旅団長。大正7年(1918年)7月24日に参謀本部附を命ぜられてハルピン特務機関長。同年11月9日からオムスク特務機関長、シベリア出兵にあっては現地支援した。大正8年(1919年)1月15日参謀本部第1部長、同年7月25日陸軍中将、総務部長に移る。大正10年(1921年)5月5日第3師団長に親補、翌年11月24日参謀次長。大正14年(1925年)5月1日に軍事参議官に親補、翌年3月2日から東京警備司令官を兼ねて陸軍大将に親任。同年7月28日に関東軍司令官に就任。昭和2年(1927年)8月26日、教育総監。昭和5年(1930年)2月、参謀総長職を辞退して金谷範三に譲る。昭和7年(1932年)5月15日に五・一五事件が起った事により引責辞任、5月26日から軍事参議官に退く。昭和7年(1932年)8月8日再び関東軍司令官に就任、満州国駐在特命全権大使と関東長官を兼務。9月15日に同国務総理・鄭孝胥との間で日満議定書を調印。満州国内の治安維持や熱河平定の軍功により、昭和8年(1933年)5月3日に元帥号を賜る。昭和8年(1933年)7月22日、黄疸に罹って新京で倒れ、8月27日午前7時50分薨去。薨去に際し、7月27日付で正二位勲一等旭日桐花大綬章・功一級金鵄勲章。またこの際、男爵位の授爵を打診されたものの、家族が辞退した事によって8月6日に改めて授爵した。天皇から御沙汰書を賜る。墓所は東京都文京区・護国寺墓地。
出典:wikipedia
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