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梶原武雄

梶原 武雄(かじわら たけお、1923年(大正12年)2月25日 - 2009年(平成21年)11月28日)は、囲碁の棋士。新潟県佐渡市出身、日本棋院所属、九段、関山利一九段門下。優れた大局観と石の形にこだわる求道的な姿勢、及び若手棋士への薫陶で囲碁界に大きな影響を与え、また多くの新定石も生み出した。抉るような厳しい棋風は「ドリル攻め」「ヤスリ攻め」「部分感覚天下一品」と呼ばれ恐れられた。武田みさを五段は姉。2000年3月31日に引退。新潟県佐渡郡畑野町(現:佐渡市畑野)に生まれる。一家で上京後の11歳の時に関山利一に入門し、1937年入段。初参加の大手合で最年少棋士ながら第8位となり、「棋道」誌で本因坊秀哉との3子局を企画され勝利。この時期、師の関山の弟弟子にあたる半田道玄とともに研鑽した。1941年の第2期本因坊戦の関山利一と橋本宇太郎の挑戦手合で、関山が2局目で病気棄権となった際、当時五段の梶原が師の関山の代理で橋本と対戦するという案が持ち上がったが、実現しなかった。この直後の大手合での対戦では、梶原は橋本に勝つ。1944年に召集され、中国戦線に出征。復員後の1947年に、日本棋院に不満を訴えて前田陳爾、坂田栄男ら8棋士で囲碁新社を結成して、日本棋院を脱退。1948年に坂田が呉清源との三番碁に敗れた後、梶原も先番逆コミで呉に挑むが敗れ、単独で日本棋院に復帰、1949年に残る7棋士も復帰した。この頃、藤沢秀行、山部俊郎と並んで「戦後三羽烏」「アプレゲール三羽烏」などと呼ばれた。1950年の日本棋院と関西棋院による東西対抗戦に六段で出場し、西軍の細川千仭七段に勝利。続く東西対抗の勝ち抜き戦では、瀬川良雄、炭野武司、鯛中新、本因坊昭宇に4人抜きして東軍勝利とした。1964年の王座戦では決勝に進み、当時全盛の坂田栄男との三番勝負に2連敗で敗れる。1965年九段、名人戦リーグ入り。その後も1973年に全日本第一位決定戦挑戦者、1977年碁聖戦リーグで同率挑戦者決定戦進出、1983年に十段戦勝者組決勝進出など各棋戦で活躍。木谷実の内弟子の道場が四谷に移転した時、その弟子達の研究会を梶原が始める。木谷門下の多くの棋士に加え、瀬越憲作門下の曺薫鉉らも参加し、大いに影響を受けた。長考派としても知られ、1960年王座戦の橋本昌二戦での「今日の蛤は重い」の一言は有名。TVのNHK杯などの解説では歯切れのいい「梶原節」が人気を呼んだ。2001年には「週刊碁」に、半生を綴った「石心一路」を連載。趣味は詩吟。序盤を学問的探究心をもって深く研究し、「碁は序盤こそが学問、中盤は戦争屋に、終盤は能吏にまかせておけばよい」といった発言も残っている。またこのため、序盤に持ち時間を使い果たし、終盤で逆転されるといったことも多かった。仲間内の愛称は、その毒舌により森の石松から取った「イシ」。通算成績は、595勝458敗11ジゴ。四人抜きで決着 東西対抗戦勝抜戦第六局 1950年6月27、28日 梶原武雄六段-本因坊昭宇(先番)梶原の白番、黒◉(37手目)まで大斜定石の新型。その後黒も4、8と軽妙な好手を繰り出し、白も17とヤスリ攻めで中央の険しい戦いとなる。戦いが右辺に及んで白の緩手で黒優勢となるが、中央黒を追撃して逆転。216手まで白中押勝。梶原は関西棋院の主将を倒して、4人抜きで日本棋院勝利をもたらした。梶原はいくつかの新手、新定石を編み出し、梶原定石の名で知られているものも多い。代表的なものとして、小目の二間高バサミにハザマ飛びする形の派生型(下図)がある。出来上がり図白は数子を捨石にした代償に、黒一子を突き抜いて切り離し、先手で勢力を得る。この後白Aに封鎖するのも手厚いが、手を抜くことが多い。後の黒aには、隅の白石にはこだわらずに白bと外す要領。棋士の研究会やテレビの解説などで数々の新語を発し、碁界に広まった。長い説明を省いた略語が多い。

出典:wikipedia

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