松平 信安(まつだいら のぶやす)は、幕末から明治時代の大名、華族。出羽上山藩の第10代(最後)の藩主。藤井松平家嫡流16代。元治元年(1864年)4月24日、第7代藩主松平信宝の五男として生まれる。慶応4年(1868年)12月、戊辰戦争で兄の信庸が奥羽越列藩同盟に参加して新政府と対立したため、戦後に新政府から強制隠居処分となった。代わって、信安が兄の養子として跡を継ぐこととなった。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により上山藩知事となり、8月24日に従五位に叙任する。しかし幼少のため、実際の政務は兄の信庸が行っていたと言われている。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により知藩事職を免官されて東京へ移った。明治5年(1872年)7月8日、慶應義塾に入った。明治17年(1884年)7月8日、子爵に授爵された。明治32年(1899年)8月、芝大神宮の社司に就任した。信庸の実子である信恭の成長にともない、信安の立場は微妙なものとなる。信庸らに財産は管理されており、生活は苦しく、信恭やその生母による理不尽な扱いに、一時は当主でありながら屋敷を出るに至った。明治23年(1890年)には信安は隠居を望んだという。明治30年(1897年)、信恭を養子に迎えるものの、冷遇に変化はなかったようである。明治36年(1903年)、信恭の廃嫡のため、訴訟に踏み切る。信恭とその生母らが藤井松平家の家政の実権を握り、当主である信安を不当に軽んじている状況にあったためという。放蕩な生活を送り続けて散財したことが祟り、明治41年(1908年)10月19日に子爵の爵位返上に追い込まれ、藤井松平家嫡流の上山藩主家は華族の座から転落した。信安の爵位返上にともない、信恭も正五位の位記返上を命じられた。大正7年(1918年)10月23日、兄の後を追うように死去した。享年55。※日付=旧暦。但し、明治6年以降は新暦。
出典:wikipedia
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