軍馬補充部(ぐんばほじゅうぶ)は、日本の陸軍省の外局の一つ。軍馬の供給・育成及び購買並びに軍馬資源の調査を管掌した。明治7年(1874年)3月31日に設置された軍馬局が前身で、軍馬育成所、軍馬補充署などを経て明治29年(1896年)の「軍馬補充部条例」に拠って5月9日軍馬補充部に改称された。長は本部長で、国内各地に支部を持った。昭和20年(1945年)11月の陸軍省廃止と共に解体された。明治7年3月31日に陸軍省内に設置された軍馬局は「軍馬局条例」によるもので、馬政業務を扱い、軍馬の調教を行った。支部にあたる東京の第一厩と仙台の第二厩を管轄した。明治17年に条例改正され幼駒の購入や育成も所掌事務に加わり、新たに第一調馬隊(東京)・第二調馬隊(宮城県玉造郡)及び三本木の出張所が設置される。明治19年(1886年)3月1日には軍馬局が廃止され、所掌事務は騎兵局第三課に移された。明治21年(1888年)3月30日から騎兵局の管下に軍馬育成所が設置され、東京の第一調馬隊を以って軍馬育成所本部とし、青森育成所を三本木軍馬育成所、第二調馬隊を鍛冶谷沢軍馬育成所と改称し、兵庫県に新たに青野軍馬育成所を設けた。軍馬育成所は明治26年(1896年)5月3日に軍馬補充署と改称され、長を署長と改め陸軍大臣直隷機関とした。軍馬補充部条例(明治29年勅令第193号)の公布にあたり明治29年5月9日軍馬補充署を軍馬補充部と改め、長を本部長と称する。本部長には騎兵大佐或いは少将が補された。同年5月11日、元軍馬育成所を改組して、三本木支部、鍛冶谷沢支部、福元支部、青野支部を設置した。明治30年(1897年)12月福島県に白河支部を設置。明治32年(1899年)8月4月、本部が東京市牛込区市ヶ谷仲ノ町53番地・旧教師館跡に移転。明治33年(1900年)北海道白糠郡に釧路支部を設置。明治36年(1903年)5月8月、本部が東京市麹町区富士見町4丁目14番地に移転。明治41年(1908年)に北海道川上郡熊牛村(後の標茶町)に川上支部を設置する。明治42年(1909年)中川郡本別村に十勝支部設置。1912年12月19日、本部が東京市四谷区大番町に移転。1917年3月28日、本部を麹町区永田町一丁目陸軍省構内に移転。昭和2年(1927年)大山支部旭川派出所を朝鮮の雄基に移転し、雄基支部とする。昭和19年(1944年)8月23日各支部を中央馬廠支廠に改める。昭和20年11月30日の陸軍省廃止に伴い軍馬補充部も解散した。1900年(明治33年)白糠郡白糠村茶路川に設置された。分厩に和天別分厩。支部の所在地であったところに建物は残っていないが、根釧西部森林管理署白糠事務所がそこにある。又、釧路市に在った馬糧庫は昭和23年11月移築改造され、一時期ではあるが大蔵省北海道財務局釧路財務部として利用される。1900年11月15日、仮事務所を釧路郡釧路浦見町の釧路連隊区司令部内に設置し事務を開始。1901年5月15日、白糠郡白糠村に移転。1907年11月20日、音別派出部の仮事務所を白糠郡尺別村字音別に設置し事務を開始。1913年9月1日、足寄派出部を十勝国中川郡本別村に設置。1907年(明治40年)川上郡熊牛村字標茶の集治監跡を軍用地に移管し設置された。用地は凡そ三万ヘクタールに及ぶ。川上支部仮事務所庁舎は明治18年に北海道3番目の集治監(刑務所)として設置された北海道集治監釧路分監本館で、集治監が明治34年に網走へ移転した為、空いていた建物を利用し、1907年11月20日に事務を開始。川上支部用地の一部は昭和21年4月北海道庁立標茶農業高等学校(後の北海道標茶高等学校)が取得し、支部資材庫は高校の資料館として利用されている。川上支部本部庁舎は昭和44年2月塘路湖畔に移築され、町文化財に認定の上「標茶町郷土館」として利用されている。明治42年に中川郡本別村(後に本別町)西仙美里に設置。用地面積は1万9800ヘクタール。昭和20年11月の陸軍省廃止に伴い用地は大蔵省に移された。昭和21年本別町西仙美里の土地は北海道立農業講習所(昭和49年から北海道立農業大学校)が取得し、足寄町鷲府にあった支部用地は昭和24年に九州大学が取得し北海道演習林として利用する。昭和63年には国鉄仙美里駅長の森弘が軍馬の鎮魂碑を建立した。西竹一(バロン西)が在籍(昭和14年3月-昭和15年8月)していたことも知られている。別海町西春別に設置される。青森県三本木町(後に十和田市)の三本木支部は各支部の中では最も規模が大きかった。明治18年5月に軍馬局出張所として設立され、1896年(明治29年)の軍馬補充部設置に伴い三本木支部となる。切田・赤沼・元村の各分厩と七戸派出部、中山派出部(岩手県二戸郡小鳥谷村)、戸来(三戸郡戸来村、後の新郷村)牧場、倉内出張所(上北郡六ヶ所村)を統括した。昭和47年6月3日に開館した十和田市郷土館は西十二番町にあった三本木支部庁舎を改良したもので、軍馬補充部時代の資料や馬具等を展示している。同館は平成16年9月十和田市立中央病院の拡大に伴い西三番町へ移転。三本木支部本部の正門から本部事務所庁舎までの道は「官庁街通り」として日本の道百選に選ばれている。1907年(明治40年)11月15日に仮事務所を青森県上北郡天間林村大字天間舘字道ノ上に設置し事務を開始。明治29年5月11日、宮城県玉造郡温泉村(川渡村を経て、玉造郡鳴子町川渡)に設置された。明治17年に設置された調馬隊隷下の鍛冶屋沢軍馬育成場が前身。追原派出部(福島県西白河郡西郷村)、冬師山出張所(秋田県由利郡院内村)を管轄した。明治30年12月に福島県西白河郡西郷村小田倉に本部が設置された。福島県岩瀬郡湯本村(後の岩瀬郡天栄村湯本)羽鳥出張所、栃木県塩谷郡泉村(後の矢板市)の泉出張所があった。本厩である本部の他に白坂分厩・一ノ又分厩・芝原分厩の三分厩と小田倉・真船・那須 ・高津の各牧場をもっていた。1898年9月、那須派出部を栃木県那須郡那須村大字寺子字小島小字田畑に設置し、事務は白河支部で担当した。1899年8月20日より、那須派出部の事務を那須郡那須村大字寺子字小島265番地の仮事務所で担当した。支部は終戦によって陸軍省及び軍馬補充部が解体された事に伴い廃止されるが、鍛冶谷沢派出部の施設等は大蔵省に移管されて残った。昭和24年に東北大学附属の農場となり、その後幾多の改変を経て平成15年より東北大学大学院農学研究科附属複合生態フィールド教育研究センター複合陸域生産システム部となる。また、白河支部事務所の建物は平成4年から西郷村歴史民俗資料館として利用され、平成9年12月22日に西郷村の有形文化財に指定される。岩手県水沢地方は古くは明治5年の兵部省時代から軍馬を供給したとの記録がある。以後年々軍馬を生産し、獣医師で相去村長・胆沢郡会議員等を務めた桑島重三郎の誘致活動等によって、明治31年(1898年)11月に胆沢郡相去村大字六原字前穴持(現:金ケ崎町六原)に六原支部が設置され、同月15日から事務が始められた。大正14年に廃止。出張所に種山出張所。建物は岩手県立農業大学校が利用する。鍛冶谷沢支部の萩野派出部として設置。明治31年5月15日、萩野派出部は山形県最上郡萩野村大字萩野字塩野に完成した新築庁舎に移転した。1910年12月12日、萩野支部は最上郡萩野村に移転。大正12年廃止。鳥取県西伯郡名和村富長(後の西伯郡大山町)に在った支部。明治31年岡山県真庭郡八束村蒜山に旭川派出所の他、東伯郡赤碕町大字松谷に赤碕派出所があった。1903年4月1日、旭川派出部は八束村大字上長田の仮事務所で事務を開始。昭和2年に旭川派出所が朝鮮の雄基に移転し、雄基支部となる。福元支部として設置され、高原支部を経て、高鍋支部と改称。明治29年5月11日、鹿児島県鹿児島郡谷山村に設置された。福元軍馬育成場が前身。知覧派出部(川辺郡知覧村)があった。明治31年11月、高原派出部を宮崎県西諸県郡高原村大字大鹿倉に設置し、その事務は当初、福元支部内で行ったが、明治32年2月15日から同派出部で取り扱った。1902年6月4日、福元支部を改称して高原支部となる。同年6月20日、宮崎県西諸県郡高原村に移転し同月21日より事務を開始。1908年8月1日、川南派出部仮事務所を宮崎県児湯郡川南村大字川に設置し事務を開始。同年12月11日、川南派出部は児湯郡上江村の新築事務所に移転。1910年3月10日、高原支部は児湯郡上江村に移転し、高原派出部を西諸県郡高原村に設置。宮崎県児湯郡高鍋町に設けられた支部。廃止後の昭和21年2月に宮崎県が用地取得し、農場として使用。宮崎県開拓増産修練農場・宮崎県経営伝習農場を経て昭和47年から宮崎県立農業大学校と名称を変える。高鍋支部には小林派出部があり、同部用地は戦後になって独立行政法人家畜改良センター宮崎牧場が利用する。明治31年大山支部に設けられた旭川派出所が昭和2年朝鮮・雄基に移転したもの。明治29年5月11日、兵庫県加東郡河合村に設置された。青野軍馬育成場が前身。大山派出部(鳥取県西伯郡逢坂村)を管轄した。1913年8月15日、残務が完結し閉鎖となる。所在地は会寧
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