北野 元(きたの もと、1941年1月1日 - )は、元ホンダワークス所属のライダー、元レーシングドライバー。京都府京都市出身。かつて高橋国光・黒澤元治と共に日産自動車追浜ワークスの三羽ガラスと呼ばれた。2007年11月現在、二輪用のタイヤを扱うタイヤショップウルフ・モトを経営。ツインリンクもてぎ内の博物館ホンダコレクションホールに動態保存されている多くの2輪・4輪のレース用マシンを、イベントなどで走らせるドライバー役も務める。愛称キタさん(北さん)。血液型O型。1959年4月に大阪の信太山で開催された「第1回全日本モトクロス競技大会」でデビューし、オープンレースで優勝を飾る。同年8月の第2回全日本クラブマンレース(アマチュアが対象)に出場。一般市販車のホンダ・ベンリィスーパースポーツCB92で125ccクラスに、市販レーサーであるドリームスーパースポーツCR71で250ccクラスに出場し、両クラスで優勝する。同レースと併催だった第3回浅間火山レース(ワークスチームが対象)125ccクラスにも招待され、市販マシンCB92でホンダのワークス勢を抑えての優勝を果たす(1レースで3勝)。浅間火山レースの250ccクラスにも招待されていたが、このレースには出走していない。125ccに続き250ccクラスでもホンダワークスが負けては困ると、ホンダから北野に対し出場を控えるよう要請があったのではないか、という説もある(CR71は名目上は市販車だが、事実上ホンダ系チームだけに貸与されていた)。これらの活躍で一躍注目の的となり、高橋国光や伊藤史朗と並び、若き天才ライダーと呼ばれた。翌1960年にホンダワークスに加入(高橋国光もほぼ同時に加入)。わずか19歳で世界最高峰の難レースと言われたマン島TTレースに出場したのを始め、世界グランプリ(GP)レースに出場し活躍することになる。1961年初めのデイトナスピードウィーク・US(アメリカ)GP(世界GPではないノンタイトル戦)250ccクラスで、マイク・ヘイルウッド(モンディアル)や伊藤史朗(ヤマハ)などの強豪を破り独走優勝。世界GP戦ではないものの、これは日本の選手および自動車(2輪4輪)メーカーにとって海外ビッグレース初優勝だった。ただし同じ1961年のマン島TTの練習時に転倒し重傷を負ってしまい、同年の大半を治療等に費やす結果になった。以後、この事故による重い後遺症を抱えた状態でレース活動を行うことになった。その後もホンダワークスライダーとして世界GPに出場するが、目立った成績は残していない。1964年5月、鈴鹿サーキットで行われた4輪レースの第2回日本グランプリにホンダもS600で出場することになり、北野もステアリングを握ることになった。北野は予選前日の150R(現在の130R)で大クラッシュを演じたにもかかわらず、同じチームの外国人ドライバーロニー・バックナム(ホンダF1の初代ドライバー)に次ぐ2位でレースを終えている。1965年からはホンダ2輪チームの先輩格にあたる田中健二郎に誘われる形で、同チームの高橋国光とともに日産の追浜ワークスに移籍。以降は4輪ドライバーとして活躍する。最初はフェアレディ1600を駆ってレースに出場していたが、ライバルとのポテンシャルの差からなかなか勝てずにいた。それでも1966年の第3回日本グランプリではフェアレディSを駆って予選では2番手を約15秒離して堂々のポールポジションを獲得した。翌1967年の第4回日本グランプリでは、初めて乗ったミッドシップの本格的なプロトタイプ日産・R380AーIIに苦戦しながらも4位入賞。1968年の「'68日本グランプリ」において日産・R381で念願の総合優勝を獲得、名実ともに一流ドライバーの仲間入りを果たす。1969年の「'69日本グランプリ」でも日産・R382で、同じチームの黒澤元治に次いで2位。1970年6月の「富士300マイル」で優勝とプロトタイプマシンでの活躍が続いた。ただし折からのオイルショックや排ガス規制の波によって日産がレース活動を縮小したため、プロトタイプマシンでの活動はこの70年が最後になってしまった。その後はツーリングカーやGTカーを主体にレース活動を行った。フェアレディZ432では、同車のデビュー戦となった1970年鈴鹿300kmレースでリタイヤに終わったものの、先輩である田中健二郎から絶賛された。フェアレディ240Zでは、1971年の全日本ドライバー選手権で土付かずの年間チャンピオンを獲得。1972年9月3日の「富士インター200マイルレース」ではスカイライン2000GT-Rに乗り、マツダサバンナRX-3を駆る従野孝司との死闘を制し52勝目の勝利をGT-Rにもたらした。サニーエクセレントでは、1972年の日本グランプリでスタート直後の大事故で多くのサニー勢が消えた中、たった一台でトヨタ勢とバトル。そのほかブルーバード、チェリーなど多くのマシンで数多くの優勝、入賞を果たしている。1973年中盤からは富士グランチャンピオンレース(通称・富士GC)や全日本F2000(後の全日本F2)に進出。チーム体制やマシンのポテンシャルの問題から苦戦を強いられることが多かった(両シリーズ合わせて最高位2位)ものの、常にトップドライバーと見なされていた。1974年6月2日の富士GC第2戦で、第2ヒートのスタート直後に黒澤元治と接触。風戸裕・鈴木誠一が死亡する大クラッシュの一因になってしまった。ただし黒澤が北野に接触したのが原因であり、北野に責任はないと見る向きが多い。1978年の「78JAF富士グランプリ」での6位を最後に一度現役を引退。以後、2輪用タイヤショップを経営。1987年の全日本ツーリングカー選手権(いわゆるグループA)に、レイトンハウスのスカイラインRSターボで出場(コンビを組んだのは影山正彦)。1988年、日産ワークスの後輩である星野一義主宰のホシノ・レーシングからレースに参戦。和田孝夫とコンビを組み、スカイラインGTS-Rで全日本ツーリングカー選手権に参戦。1989年は星野と組んで1年間戦い、西仙台ハイランド300kmレースでは17年ぶりの総合優勝を飾っている。この年、再び現役生活から引退する。現在では二輪タイヤショップ「ウルフ・モト」のオーナーとして、そのバイクに合ったベストなタイヤ選択と安全に速く走る方法を顧客に伝えている。近年、ニッサンが年に一度開催する「NISMO FESTIVAL」で、往年のマシンをデモ走行させている。2003年はスカイライン2000GT-Rレーシング仕様、2004年はレストアを終えたR382(ただしゼッケン21の黒澤元治仕様)、フェアレディ240Z(当時テスト用として使われていたマシンらしい)、2005年は北野が「68日本グランプリ」で総合優勝したニッサンR381(ゼッケン20)を走らせている。4輪時代は黒いジェット型ヘルメットに口ひげがトレードマーク。右側にちょっと首を傾げてドライブするのも特徴で、ツーリングカーでは右手を窓枠にかけ、しばしば片手ハンドルを行っていた。マン島TTレースで重傷を負った際の後遺症のためと言われる。日本の4輪レースでフルフェイス型ヘルメットが初めて使用されたのは、1969年の日本グランプリにおける日産チームだったと言われる(元祖フルフェイスである米ベル社のヘルメットを、日産がワークスドライバーに支給)。ほとんどのドライバーが喜んでフルフェイスを使用する中、北野は「重く違和感がある」とジェット型ヘルメットに固執し、結果として同レースでは2位入賞。その後フルフェイスが完全に主流になった 1970年代中盤でも、ジェットを使用し続けていた。とはいえ北野は70年6月に行われた全日本富士300マイルで、白地に黄色い横のストライプの入ったフルフェイスをかぶって、黒澤元治とともにニッサンR382をドライブし優勝。1975年シーズンからは黒のフルフェイスをかぶっている。高橋国光などと並び天才肌と称されたが、比較的早めにトップカテゴリーから引退しているため、やや地味なイメージになっている面もある。しかし当時を知る関係者や、近年のメモリアルイベントの現場で直に接した人々の間では、「あれだけの実績があるのに偉ぶらず親切で礼儀正しい人」と非常に人気が高い。先輩である田中健二郎も「北野は向こうっ気が強い面もあったが、仲間やライバルが事故でコースアウトしていたりすると、すぐにマシンを止め真っ先に救助に駆け付ける男でもある」と評している。砂子義一、片山義美、星野一義、菱木哲哉なども北野の人柄を褒め称えている。レースでは誰よりも激しい走りを見せ全盛期の星野一義をも驚かせた北野だが、オーナーであるタイヤショップを訪れる一般ライダーには「タイヤの馴らしが終わるまで絶対に無理するなよ、スピードは控えめにしろよ、他人にいい格好を見せようとしちゃ駄目だよ」などと、元世界GPライダーとは思えないほど(逆に言えば危険な領域を知っているからこその)安全第一の丁寧なアドバイスを送ることで知られている。
出典:wikipedia
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