東条松平家(とうじょうまつだいらけ)は、清和源氏新田氏流松平氏の庶流。始祖は松平宗家5代目・松平長親の三男・義春。三河国の東条城を居城とし東条松平家と呼ばれた。青野松平家とも。十四松平・十八松平の1つに数えられる。初代・松平義春は松平清康・広忠時代の松平氏の困難な時期も宗家を支持した。義春の孫・松平家忠は天正9年(1581年)に病没したが嗣子なく、徳川家康はその四男・福松丸(後の松平忠吉)を養子として跡を継がせた。忠吉は武蔵国忍城10万石に封ぜられ、のち尾張国清洲城52万石を領して徳川宗家の支柱として重きをなしたが、慶長12年(1607年)3月5日に嗣子無く夭折する。家康はその名跡の存続させず、甲斐国甲府藩主の九男・五郎太(後の徳川義直)を清洲に移して尾張徳川家を創設した為、慶長12年(1607年)閏4月26日、東条松平家は断絶した。しかし、その領地と家臣団の大半が尾張藩に引継がれた。始祖・松平義春が三河国幡豆郡吉良荘斑馬の東条城主・吉良義藤出奔の跡を受けて、東条吉良氏の6代目を継承したことによると云う。しかし、この松平氏の東条吉良氏継承の事実関係は現在も明確ではなく、疑問視する見方がある。義春およびその嫡男・松平忠茂は碧海郡の青野城にあったとされ、義春の孫・亀千代(後の松平家忠)は東条城に居城した。一般的には、亀千代(家忠)の後見人で家老の松井忠次が永禄4年(1561年)に徳川家康に帰属して東条城にあった吉良義昭を攻めて追放し、亀千代を入城させた事績をもって東条松平の成立とみなす。しかしまた、始祖の義春と同名の人物が東条領を領した徴証もあり、また義春の長子・甚二郎も東条吉良領饗庭を領し、同家家老の松井忠次の父・忠直はもと東條吉良家臣とされ、さらに忠次自身も東条領の饗庭(相場)小山田村を本貫とし、そこで出生したとされている。そして、松平氏は勢力拡大の過程で足利将軍家の分家である東条吉良氏に接近し姻戚関係を結んで関係を深めようとした兆候が認められる。 凡例『寛政重修諸家譜』や「養寿寺本吉良氏系図」等には、義春を東条吉良家の6代目に数える系図が見受けられる。。以下の系図は上矢田養寿寺系図を基本に作成、寛政譜にて持長・持助を補う。
出典:wikipedia
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