嶋田 功(しまだ いさお、1945年11月8日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) の元騎手及び元調教師。北海道出身。騎手時代は優駿牝馬(オークス)通算5勝など牝馬限定競走で顕著な実績を残し、「牝馬の嶋田」「オークス男」等と称された。元騎手、元調教師の嶋田潤は実弟、元騎手の嶋田高宏は甥。騎手の嶋田純次との血縁関係はない。1945年、北海道三石郡三石町(現・日高郡新ひだか町)の嶋田牧場に三男として生まれる。中学校卒業後に馬事公苑騎手養成長期課程に入所、修了後の1963年、東京競馬場の稲葉幸夫厩舎に入門する。翌1964年3月1日に騎手免許を取得し、正騎手としてデビューした。同期には菅原泰夫、松田博資らがいる。当時の表記は「島田功」であった。初年度は10勝に終わったが、2年目に牝馬パナソニックで安田記念を逃げ切り、重賞初制覇。この年33勝を挙げた。その後も順調に勝利数を伸ばし、1968年には58勝を挙げて全国ランキング9位に付け、初のベスト10入りを果たす。1969年には東京優駿(日本ダービー)でタカツバキに騎乗、単勝支持率44.4パーセントの1番人気となるが、スタート直後の1周目スタンド前で落馬(タカツバキ事件)という結果に終わった(優勝は人気薄のダイシンボルガード。大崎昭一騎乗)。その後、1971年にナスノカオリで桜花賞に優勝し、八大競走およびクラシック競走を初制覇する。1972年にはタケフブキで優駿牝馬(オークス)を初制覇するが、9月末に落馬事故により頭蓋骨骨折などの重傷を負い、一時意識不明の重体となる。騎手生命を危ぶまれた事故であったが、翌年2月に復帰。5月にナスノチグサでオークス連覇を果たすと、翌週の日本ダービーではタケホープに騎乗し、当代一の人気馬ハイセイコーを退けて優勝。タカツバキ事件の雪辱を果たした。しかし同年10月、調教中に落馬して右脛を骨折、再度の長期療養となった。タケホープでの菊花賞臨戦直前の出来事であり、同馬には武邦彦が代わりに騎乗し、勝利を収めている。4か月の療養後に復帰、5月5日にタケホープで天皇賞(春)を制覇、2週間後にはトウコウエルザで史上初のオークス3連覇を達成した。同一クラシック競走の3連覇は、1958年-1960年に皐月賞を三連覇した渡辺正人以来の快挙であった。しかし翌1975年3月21日、中山競馬第8競走の発走直前に他馬が暴れて嶋田の騎乗馬に衝突し、嶋田は靱帯断裂で三度目の休養を余儀なくされた。復帰後の1976年、テイタニヤで牝馬クラシック二冠を制し、秋にはアイフルで天皇賞(秋)にも優勝。この年、東京競馬記者クラブ賞特別賞を受賞した。その後は1981年にテンモンでオークス5勝目を挙げ、翌1982年にはビクトリアクラウンでエリザベス女王杯を制した。騎手生活の晩年まで30勝前後を挙げる安定した成績を保っていたが、1988年に体力の限界を理由に騎手引退を発表。2月28日の東京競馬第9競走をアイビートウコウで制し、最後の騎乗を勝利で飾った。通算7327戦951勝。以後は調教師に転身。1989年に美浦トレーニングセンターに嶋田功厩舎を開業した。初年度の12月、騎手生活最後の勝利を挙げたアイビートウコウでダービー卿チャレンジトロフィーを制し、調教師として重賞初勝利を挙げた。GI級競走の優勝は無かったが、1990年にワカタイショウで中山大障害(秋)(当時グレード外競走)を制している。2012年11月20日付で定年を待たず66歳で勇退した。「牝馬の嶋田」の異名の通り、史上最多記録であるオークス5勝を筆頭に、エリザベス女王杯の前身ビクトリアカップも含めて、騎手生活中に施行されていた牝馬限定の大競走は全て制した。端正な顔立ちで女性からの人気も高く、41歳のときに雑誌の読者投票で「グッドルッキングジョッキー」の第2位に選ばれている。「牝馬の嶋田」以外には「東京2400mのスペシャリスト」とも呼ばれ、「嶋田功専用走路がある」という冗談が言われたほどであった。このコースで行われるダービーをタケホープで初制覇した際には、競走前に「ハイセイコーが四ツ脚ならタケホープも四ツ脚だよ」と発言、当初は負け惜しみの冗談と受け取られたが、優勝したことで逸話として語られるようになった。この時、ハイセイコーのファンであった嶋田の息子が「ハイセイコーが負けちゃった。どうしてママ」と母親(=嶋田の妻)に泣き付いたという話も伝えられている。度重なる落馬がなければ通算1000勝は確実であり、リーディングジョッキー獲得も有り得る騎手であったと評される。数々の騎乗馬の中ではグリーングラス、タケホープなどを最強馬として挙げているが、牝馬に限れば、台風による被災で早期引退を余儀なくされたテンモンと断言しており、「無事ならトウメイより上」と語っている。嶋田は引退時の優駿1988年4月号の記事内で「1969年のタカツバキ騎乗の際の落馬後(この雪辱を果たすため)、リーディングジョッキーの地位も要らない。1000勝も要らない。俺は必ずダービージョッキーになってやる!と思った」と語っていた。また「(落馬の多さから)五体満足ではなかったこともある。例えばアバラ骨は10何本も(現役の頃に)折ったしね」とも発していた。この他にも「一番悔しかったのがリンドブルバンに騎乗してカツラノハイセイコに敗れた東京優駿惜敗。(3着に入線した西浦勝一騎乗の)テルテンリュウの斜行の影響を受けたのもあったが」と1979年の東京優駿の敗戦を悔しがっていたことも回顧していた。※括弧内は嶋田騎乗時の優勝重賞競走。太字はGI級競走(安田記念除く)。※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
出典:wikipedia
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