劉 禅(りゅう ぜん、、、)は、三国時代の蜀漢の第2代皇帝。魏に降伏したため、皇帝としての諡は本来無いが、漢の後継を称する劉淵によって諡を贈られた。207年、父劉備が劉表に身を寄せ、荊州の新野にいた時に側室の甘氏との間に生まれた。翌208年に曹操が荊州を攻めた際に、趙雲に救われ、九死に一生を得た。また父の後妻の孫夫人が、劉禅を連れて呉へ帰ろうとしたことがあったが、張飛と趙雲によって奪還されている。劉備が益州の地を奪い、さらに漢中を攻め取って漢中王になると太子になった。221年の夷陵の戦いにおいては、呉の孫権の征伐に赴いた劉備に成都の留守を任された。劉備が夷陵において敗退すると、益州で反乱が勃発するが、諸葛亮らの働きでこれを鎮圧している。223年、父帝の死に伴い17歳で皇帝に即位した。以降は諸葛亮らに政務を任せて国を守った。234年に諸葛亮が死去した際には、劉禅は白い喪服を着て3日間哀悼の意を表している(『華陽国志』「広漢士女」による)。蔣琬や費褘・董允などの能吏に支えられ国を維持していた。劉禅自身の行為としては、後宮の人員増員を要請したり、遊興や行幸したという記録が多く残っており、董允や譙周に諫言されている。237年に皇后の張氏(敬哀皇后)が没し、238年にその妹を新たに皇后とした(単に張皇后と呼ばれる)。243年に病気になった蒋琬が一線を退き(246年死去)、246年に董允が没し、国が傾き始めた。後主伝では蒋琬の死後から劉禅が自ら政治をみるようになったとあるが、大赦を濫発するなど政治は弛緩し、宮中は奢侈に流れた。また董允の死が、それまで抑えられていた宦官黄皓の台頭を許してしまった。劉禅の黄皓への信用は高く、実弟の劉永ですら黄皓のために宮中から遠ざけられる状況であった。249年に夏侯覇が蜀漢に亡命してきた。劉禅は夏侯覇と会見し、「あなたの父(夏侯淵)は戦陣の中で命を落としたのだ。私の父が殺したのではないのだ」と言い、自分の子供を指さし示して、「この子は夏侯氏の甥にあたる」と言った。かくして、手厚く爵位恩賞を賜った。さらに253年に費褘が宴席において魏の降将郭循によって刺殺されると、軍を掌握した姜維がたびたび大規模な北伐を企てるが、戦果は挙がらず国力が疲弊した。258年には黄皓が政治的な権力を握るようになった。その一方で、閻宇は黄皓と結託し、黄皓は姜維と閻宇を交代させようと画策したという。黄皓以外にも諸葛瞻・董厥は、姜維が戦争を好んで功績なく、国内が疲弊していることを理由に、姜維を召還して益州刺史とし、その軍事権を奪うように劉禅に上奏すべきと考えていたという。260年には、関羽や張飛といった建国の功臣に諡号を濫発した。261年には諸葛亮の子の諸葛瞻が取り立てられたが、黄皓の権力の掣肘とはならず、262年には姜維が黄皓の殺害を企て、黄皓は姜維を讒言する有様であった。263年に魏の軍勢が蜀に大規模な攻勢をかけると、姜維は援軍を求めた。しかし黄皓は敵が来ないという占いを劉禅に信じさせたため、防衛は後手に回り、陰平方面から迂回して進軍してきた魏軍が、江油の馬邈を降参させた。さらに綿竹で諸葛瞻が討ち取られると、抵抗の手段を失い、南蛮や呉への逃亡を図ろうとしたが、結局は譙周の勧めに従い降伏した。劉禅は、降伏するときの仕来りに則り、自らの身を縛りあげ、棺を担いだ姿で、自ら魏軍の鄧艾の元を訪れたという。このとき五男の北地王劉諶が自害している。また魏の将軍に略取されそうになった愛妾の李昭儀が自害したという。264年、魏軍内紛の際に姜維より蜀再興の手紙を渡されたというが、結局反乱は失敗し、このとき姜維等旧臣の多くと太子の劉璿を失った。劉禅は生き残った子達と共に洛陽に移送された。伴した家臣は郤正などわずかな者だけであったといわれる。また、洛陽で司馬昭に宴会に招かれた際の逸話が『漢晋春秋』に載っている(後述)。その後、先祖代々の土地である幽州の安楽県で安楽公に封じられた。長男の劉璿には先立たれていたため、後継者を決めることになったが、次男の劉瑤を差し置いて、六男の劉恂を後継にしようとしたため、旧臣の文立に諌められた。271年に65歳で死去した。西晋によって、思公と諡された。安楽公を継いだ劉恂は、道義を失う振る舞いを度々行い、旧臣の何攀たちに諫言されたという。最後は永嘉の乱に巻き込まれ、劉恂も含めて一族皆殺しにされた。ただ、従孫の劉玄(弟・劉永の孫)だけが生き延びて、成蜀を頼ったという。兄弟妻子従孫蜀漢が滅んだ後のこととして、蜀書後主伝の裴松之註に引く『漢晋春秋』には以下のような逸話が記されている。宴席で蜀の音楽が演奏されて、蜀の旧臣が落涙していたときにも劉禅は笑っていた。それを見た司馬昭は、「人はここまで無情になれるものなのか。諸葛亮が補佐し切れなかったのだから、姜維には尚更無理だっただろう」と賈充に語った。また、司馬昭が劉禅に「蜀を思い出されますか?」と尋ねたところ「いいえ、ここは楽しく、蜀を思い出す事はありません」と答えた。これには家来のみならず、列席していた将たちさえも唖然とさせられた。傍に居た郤正は、「あのような質問をされたら、『先祖の墳墓も隴・蜀にありますので、西の国を思って悲しまぬ日とてありませぬ』とお答えください」と諫めた。司馬昭は再度同じことを質問したところ、これに対し劉禅は事前に言われた通りに答えた。「これは郤正殿が言った事と全く同じですね」と司馬昭に言われ、劉禅は驚いて「はい、仰る通りです」と答えて大笑いになった。この逸話から「どうしようもない人物」指す「扶不起的阿斗(助けようのない阿斗)」ということわざが生まれた(「ことわざ」を参照)。後主伝の本文において、劉禅自身が為政者として国の重大な政治事件について取った能動的行動は、魏に対する降伏以外ではほとんどなく、呉との同盟復活や南蛮の反乱鎮圧、皇帝を称した呉との関係修復、相次ぐ北伐、244年の魏による蜀侵攻などといった、蜀の抱えた重要な政治課題、軍事課題について劉禅が何かを判断した形跡はほとんど見られない。諸葛亮が死去し喪に服した際に、臣下の李邈が「諸葛亮は大軍を率いて隙をみて裏切ろうとしていた節があります。彼の死は皇室御一家にとって禍が去り、安泰になった証拠であります。これは国中で祝賀すべきことで、葬儀をすべきことではありません」と述べた。激怒した劉禅は彼を即座に処刑した、とある(『華陽国志』「広漢士女」)。同時期に魏延が反乱を起こした際は、その三族を処刑し、また劉備以来の臣下であった劉琰を、劉琰の妻に対する暴行を理由に処刑している。しかし、廖立に対しては、諸葛亮が廖立の非を上奏したのを受けて発した詔勅は、廖立を死刑にするのは忍びないという理由で、庶人に落とした上に、汶山郡に流刑にしている(『諸葛亮集』)。魏延と争い、これを鎮圧した功績が大きいと思った楊儀が、その待遇に不満を持ち、費禕に「かつて丞相(諸葛亮)が亡くなった際に、軍を率いて魏についていたら、こんな風に落ちぶれる事はなかったろうに」と漏らした。費禕はそのことをひそかに劉禅に上奏したため、劉禅は楊儀を庶人に落とし、漢嘉郡に流罪とした。ところが楊儀は、流刑地から他人を誹謗する激越な内容の上書を送り続けたため劉禅らはついに楊儀を拘束した。捕らえられた楊儀は自殺したが、その妻子は成都に戻ることを許した。蜀への使者を務めた呉の薛珝は、孫休に蜀の統治について尋ねられた際、「主君は暗愚で己の過ちを知らず」と評している。『三国志』の撰者陳寿は、「白い糸は染められるままに何色にも変ずる」(周りの人間が有能なら善く、悪かったら駄目になるような人間である」という主旨)、「諸葛亮が補佐した十二年間は改元もせず、あれほど出兵しながらも、みだりに恩赦を行うこともなかった。なかなか出来ないことだ。しかし諸葛亮が没して後、そうしたやり方も崩れていった。優劣は歴然としている」と評している。『華陽国志』も「中興の器にあらず」と低く評価している。なお、『晋書』「李密伝」で蜀の旧臣でもある李密は、名臣を信じて成功し、奸臣を信じて失敗した事を例に出し、劉禅を「斉の桓公に次ぐ」と述べている。かつて劉禅の像が成都の武侯祠に存在したが、嫌悪されること甚だしく、その像は何度も破壊された(何度か再建されている)という。涿県(現在の河北省保定市涿州)の三義宮には、「小三義殿」という場所があり、そこに、関興・張苞とともに祭られている。結果として弱小の蜀漢を引き継いで四十年間存続させたこと、これを支えた功臣も何度か世代交代していること、国力を衰退させ自国を滅ぼしたこと、その要因となった臣を重用していたことは事実である。小説『三国志演義』では、母親が妊娠中に北斗七星を呑む夢を見たという事から、幼名を「阿斗」と名付けられる。諸葛亮の謀反を疑って彼を北伐の前線から召還したり、魏と内通した黄皓にいわれるがまま、姜維をやはり前線から呼び戻し、しかも黄皓を庇うなど暗君としての印象がより一層強い。また、諸葛亮が召還された際に、劉禅の酒に溺れ肥えた体を見て、蔣琬や費褘らに劉禅の教育を厳しく行うよう命じている。前述の『漢晋春秋』の逸話も、劉禅の暗君ぶりを示すために三国志演義に記されている。現在の中国語では「どうしようもない人物」を「扶不起的阿斗(助けようのない阿斗)」という。これは本項「逸話」の部分にあるように、洛陽の生活を満喫し、酒宴の席上において劉禅が司馬昭に「蜀のことなど恋しくありません」と発言したのを見た人が「これでは諸葛亮が生きていてもどうしようもない(不扶起)」と軽蔑した故事にちなむ。現代は、他人のことを指すよりふがいない自分を嘆く自嘲的な言葉として使用される場面が多い。
出典:wikipedia
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