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別府史之

別府 史之(べっぷ ふみゆき、1983年4月10日 - )は、神奈川県茅ヶ崎市出身の自転車プロロードレース選手。長兄に自転車ジャーナリストの別府始、次兄に元ロードレース選手であり、現愛三工業レーシングチーム監督の別府匠。史之と匠のマネージメントは始が行っている。日本人初のツール・ド・フランス完走者の一人(同年、新城幸也も完走。ただし、総合順位は別府史之のほうが上)。また日本人初で唯一の全モニュメント完走者である。小学校2年生の時、当時現役競輪選手であった渡辺努の指導を受けマウンテンバイクの大会などに出場し始める。小学校4年生の時にロードレース初優勝を飾る。その後茅ヶ崎市立松林中学校を経て、ヨーロッパへの留学を希望するも神奈川県立藤沢北高等学校(現・神奈川県立藤沢総合高等学校)へ進学。卒業後、日本のチームブリヂストン・アンカーに所属。海外経験を積むために渡欧しフランスのトップアマチームであるヴェロクラブ・ラポム・マルセイユに派遣される。パリ~ルーベ・エスポワールやジロ・デッラ・ヴァッレ・ダ・アオスタでの活躍により、2005年にはランス・アームストロングも所属したチームディスカバリーチャンネルへと2年契約で移籍した(その後、さらに契約を1年更新し2007年も同チームに所属)。2006年の世界選手権では見せ場を作ることはできなかったが124位で完走を果たした(野寺秀徳・福島晋一は共にリタイア)ほか、チューリッヒ選手権で序盤に逃げを決め、2007年のツール・ド・ロマンディでは第3ステージで2位となり日本人として初めてUCIプロツアーのポイントを獲得した。2007年シーズン限りでチームディスカバリーチャンネルが解散したため、2008年度からはプロフェッショナルコンチネンタルチームのスキル・シマノに移籍。2008年、奈良で開催されたアジア選手権・個人ロードレースで優勝。同年6月13日、北京オリンピックロードレース日本代表選手に選出された。2009年、当初の目標であった春のクラシックでは目立った結果を残せなかったものの、6月18日から21日までピレネー山脈を舞台に行われたルート・デュ・スュド(Route du Sud。UCIヨーロッパツアー2.1)では初日に3人の逃げに乗ってステージ2位を獲得。山岳ポイントでも首位に立った。別府は第3ステージでも逃げに乗って山岳ポイントを積み重ね、最終日の第4ステージでも山岳ポイント首位を守りきって、山岳賞を勝ち取った。その後6月29日に、同年のツール・ド・フランスの出場メンバーに選出されたことが発表された。同レースには新城幸也も別チームで出場することが既に決定していた。2009年のツール・ド・フランスでは第2ステージでスキル・シマノのトレインを終盤に引く役割を果たしてタイム差なしの35位、第3ステージでは8位、終盤の第19ステージではアシストがいないにもかかわらずゴールスプリントに加わり7位に入る。また最終の第21ステージではシャンゼリゼ大通りでアタックを決めて逃げ集団を生み出し、そのまま終盤まで積極的に先頭を引くという見せ場を作り、ステージ敢闘賞を獲得した。最終的に別府は総合112位、総合優勝したアルベルト・コンタドールからは2時間55分21秒遅れの88時間43分56秒で全ステージを完走し、日本人初のツール・ド・フランス完走者の一人となった。9月に行われた世界選手権では57位となり、日本人3人の中で唯一の完走を果たした。2009年11月24日、ランス・アームストロングを中心に結成し、2010年からUCIプロツアーに参入する新規チーム「チーム・レディオシャック」に移籍することが同チームのプレスリリースにより発表された。ところが先に発表されたスキル・シマノのラインナップに既に別府の名前が存在しており、別府とスキル・シマノは契約の有効性をめぐって対立。2010年シーズンがスタートしてからも別府はスキル・シマノ、レディオシャックいずれのキャンプにも参加できない状況が続いていた。この間、別府とスキル・シマノの弁護士の間で話し合いが続けられていたが、2月3日にスキル・シマノとの契約が解消され、翌2月4日にレディオシャックと正式契約に至った。これにより、別府は2010年において日本人唯一のプロツアーチーム契約選手となった。2月6日のチームのトレーニングキャンプからチームに合流。ミラノ〜サンレモに、ランス・アームストロングのリザーブとして出場。この出場によってモニュメント(=5大クラシックレース)の全てに出場したことになる。結果は10分遅れの113位。ヘント~ウェヴェルヘムには3年連続4度目の出場となったが、序盤でクラッシュに巻き込まれ途中リタイア。パリ〜ルーベでは、落車などの多くのトラブルに遭いながらも、ルーベの競技場までたどり着くがタイムアウトで順位は付かなかった。ブエルタ・ア・エスパーニャへの出場が予定されていたが、チームが招待されずこの年グランツール出場は果たせなかった。シャトールー・クラシック・ド・ランドルでは、エースとして走り、有力スプリンターに混じり4位に入った。世界選手権ロードレースでは、最終周回までメイン集団に位置し、9位に入った新城幸也のアシストをしながら自らも30位でゴールした。UCIワールドツアーのティレーノ〜アドリアティコに初出場するも、同大会期間中に東日本大震災が発生。第4ステージスタート前、参加選手全員の前に立ち黙禱している。個人的にはTwibbonを使い「ひとりじゃない」というメッセージをTwitter、Facebookで選手、関係者、ファンの多くの人と共有し、震災で被害を受けた人々に思いを伝えている。別府は「ひとりじゃない」とメッセージが書かれているリストバンドも発売した。その売上金全額を被災地に寄付した。その後、北のクラシック3連戦(ヘント~ウェヴェルヘム、ロンド・ファン・フラーンデレン、パリ〜ルーベ)全てで出場完走を果たす。ロンド・ファン・フラーンデレン、パリ〜ルーベでは日本人初の完走となり、モニュメントのすべてで完走を果たしたことになった。ツール・ド・ロマンディの最終日第5ステージでは集団ゴールスプリントで区間6位に入ったが、UCIポイント圏内区間5位に惜しくも届かず2007年以来のポイント獲得にはならなかった。2009年のツール・ド・フランス以来、2度目のグランツールとなるジロ・デ・イタリアに出場。第1ステージのチームタイムトライアルでチームは2位、個人としては8位となる。第10ステージでは3人で148キロメートルを逃げる見せ場を作りフーガ賞(逃げ賞)を獲得。最終的には2時間25分6秒遅れの67位で全21ステージの完走を果たした。6月に行われた全日本選手権個人タイムトライアルと全日本選手権ロードレースをともに5年ぶりに優勝し2種目の日本チャンピオンジャージを獲得するが、ツール・ド・フランス、ブエルタ・ア・エスパーニャともにメンバーに選ばれず、グランツールでの日本チャンピオンジャージお披露目とはならなかった。10月、ロンドンオリンピック代表選手に内定した。所属チームのレディオシャックが、2011年9月5日にレオパード・トレックと合併しチーム解体することを発表したため移籍先を探していたが、10月5日に新チーム、グリーンエッジと2年契約したことを発表された。全日本選手権ロードレースがロンドン五輪最終選考レースとなり通常の6月より4月末に繰り上がったが、既に五輪代表には内定済みであったため、ツール・ド・ロマンディ出場のため欠場した。ロードレースの日本チャンピオンは土井雪広に移行した。5月5日、デンマークで開幕したジロ・デ・イタリア 2012に出場、ゼッケンは101番。タイムトライアルには日本チャンピオンジャージ姿で出走した。第3ステージでチームのエースマシュー・ゴスのアシストとしてゴスのステージ勝利に貢献するとともにステージ9位となった。第7ステージでは逃げ集団に入り、積極的に山岳ポイントや中間スプリントポイントを獲得。ゴスのリタイア後の第18ステージではステージ優勝を狙うエース扱いを受けるなどの活躍を見せ、最終的に4時間6分56秒遅れの総合121位で2年連続の完走を果たした。7月28日のロンドンオリンピック・マスドレースでは日本チームが新城との二人だけという布陣ながら序盤から逃げ集団に入り先頭にも立ち、終盤まで3位争いに加わって最終的には3位と同タイムの22位と健闘を見せた。タイムトライアルでは出走順の関係もありゴール後暫くは暫定金メダルの地位を得たがその後かわされ24位となった。8月7日のエネコ・ツアー第2ステージのチームタイムトライアルに於いてステージ優勝を果たし、表彰台に登壇した。ルーラー型の選手で、現在は主に平地アシストのポジションだが、ツール・ド・フランス2009第19ステージのスプリントに絡んでの7位や、山岳は専門ではないがルート・ド・スュドでの山岳賞獲得などもある。ルーラーでありながら山岳に割と強いのは、他のルーラー型選手に比べ15kg近く軽い体重がアドバンテージになっているためである。グリーンエッジに移籍してからは特にスプリント系のトレーニングを行い、トレーニングでは最強スプリンターのロビー・マキュアンにスプリントで勝利した。別府が『情熱大陸』で特集された際、練習を見たランス・アームストロングから、「山岳とスプリントを両立できる優秀な選手」と高く評価されている。

出典:wikipedia

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