エディンバラ公フィリップ王配(Prince Philip, Duke of Edinburgh、1921年6月10日 - )は、イギリス王室の成員、イギリス女王エリザベス2世の夫(王配)。爵位・称号は Prince of the United Kingdom、エディンバラ公爵、メリオネス伯爵、グリニッジ男爵、イギリス海陸空軍元帥、、日本学士院名誉会員。敬称は His Royal Highness(殿下)。祖父にギリシャ王ゲオルギオス1世 、曽祖父にデンマーク王クリスチャン9世、高祖父にロシア皇帝ニコライ1世、高祖母にイギリス女王ヴィクトリアがいる。ギリシャおよびデンマーク、ノルウェーの王家であるグリュックスブルク家(正式には、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家)出身。ギリシャ王国の第2代国王ゲオルギオス1世の四男アンドレオス王子とバッテンベルク家(英語 マウントバッテン家)出身のアリスの長男として誕生。ギリシャ語名フィリッポス()。ヴィクトリア英女王の玄孫であり、連合王国王位継承権を持つ(2012年2月現在第485位)。姉が4人おりすべてドイツ人と結婚、中にはナチスと関係を持った者もいるといわれる。長姉マルガリタ(ホーエンローエ=ランゲンブルク侯夫人)、次姉セオドラ(バーデン辺境伯夫人)、三姉セシリア(ヘッセン大公世子夫人)、四姉ソフィア(ヘッセン=カッセル公子夫人、ハノーファー王子妃)である。母方の叔母ルイーズにスウェーデン王グスタフ6世アドルフ妃。第2代ミルフォード=ヘイヴン侯ジョージ・ルイスと第二次世界大戦のビルマ戦線でその名を馳せた初代マウントバッテン・オブ・バーマ伯爵ルイス・マウントバッテンは母方の叔父にあたる。フィリップは、父アンドレオスと同様「ギリシャ王子およびデンマーク王子(Prince of Greece and Denmark)」の称号を有していたが、エリザベス王女との結婚にあたりこれを放棄している。ヴィクトリア女王 - アリス(ヘッセン大公妃) - ヴィクトリア(ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人) - アリス(アンドレオス王子妃) - フィリップ1921年6月10日、イオニア諸島のコルフ島(ケルキラ島)にある別荘の台所で、ギリシャ王子アンドレオスとアリス妃の末子として生まれる。生後1年程してギリシャでクーデターが発生、ギリシャ国王コンスタンティノス1世は退位を余儀なくされ、その弟である父アンドレオスは革命政府から死刑を宣告された。それまでケルキラ島に滞在していた一家は、ジョージ5世の差し向けたイギリス海軍の軍艦によりギリシャを脱出した。一家はパリへと向かい、アンドレオスの兄ゲオルギオス王子の妻であるマリー・ボナパルト(ピエール=ナポレオン・ボナパルトの孫)の所有するパリ郊外サン=クルーの別荘に滞在した。家庭は円満でなかった。次々と愛人を作り、家庭を省みない父アンドレオスは不在が多かった。夫の不貞に母アリスは精神を病み、南仏の病院に入院した。姉達が結婚で家を離れると、フィリップは一人になった。1928年に渡英し、祖母ヴィクトリア、叔父ジョージ・ルイスとともに生活する。1933年からはドイツ南部のバーデンの学校へ転校する。1939年、イギリス海軍兵学校を卒業し、士官候補生として海軍に入隊。第二次世界大戦に従軍した。1940年には戦艦ラミリーズに乗艦し、インド洋で半年余り任務にあたった。1941年1月からは、戦艦ヴァリアントに乗艦し、地中海での任務にあたる。この年、ヴァリアントは複数の海戦に参加しており、マタパン岬沖海戦での彼の勇戦が認められ、ギリシア十字勲章()を受章した。1942年7月には海軍中尉に昇進し、駆逐艦ウォーリスで先任将校として勤務する。1943年7月の連合軍のシチリア上陸作戦を支援した。その後駆逐艦ホエルプに異動。ホエルプは第27駆逐艦隊の一隻で、インド洋方面へ向かいやがて終戦を迎えた。日本政府が降伏文書に調印した1945年9月2日には、ホエルプは東京湾に停泊していた。翌1946年1月に英国本国へ帰還する。終戦後の1947年2月イギリスに帰化した際、軍務を継続するために母の実家の家名である「マウントバッテン」(Mountbatten:Battenbergを英語化したもの)を姓として選択した。これに伴い、ギリシア正教会からイギリス国教会への改宗を行い、さらにギリシャおよびデンマークの王子の地位を放棄することを宣言した。1947年7月9日、イギリス国王ジョージ6世の第1王女エリザベスとの婚約が発表される。11月20日、ロンドンのウェストミンスター寺院で結婚。同日から"Royal Highness" 「殿下」の敬称が与えられ、翌日にはジョージ6世からエディンバラ公爵・メリオネス伯爵・グリニッジ男爵の各爵位が授与された。結婚後の数カ月間をマルタで過ごした。1949年、フィリップは地中海艦隊第一水雷戦隊旗艦の駆逐艦チェッカーズの副長となる。1950年には少佐に昇進し、スループ艦HMSマグパイ()の艦長となる。1952年には中佐に昇進した。しかし、同年ジョージ6世が死去し、妻であるエリザベスの国王即位により彼の軍歴には終止符が打たれた。1952年2月、エリザベスがイギリス女王に即位した。1957年にエリザベス2世から"Prince of the United Kingdom"の称号を与えられ、それ以降は、"His Royal Highness The Prince Philip, Duke of Edinburgh"(エディンバラ公フィリップ王配殿下)が正式な呼称となっている。ヴィクトリア女王の夫アルバートとは異なり、共同統治者としての地位を示す"Prince Consort"の称号が与えられず、従って機密書類閲覧権もない。女王一家の姓は「ウィンザー」のままであり、フィリップの姓である「マウントバッテン」に変わらなかった。1960年に夫妻の子孫の姓を「マウントバッテン=ウィンザー」とすることになったものの、フィリップの屈辱的な思いは残った。"Prince Consort"の称号を得られなかったことは、フィリップに屈折した心理を生み、王子や王女たちにも悪影響を及ぼしたと言われる。南極大陸・南大西洋の訪問を機に自然保護への関心を深め、世界自然保護基金の初代総裁を務めた。また、英国国内のケンブリッジ大学・エディンバラ大学・ソルフォード大学などの総長なども務めている。1956年には「エディンバラ公賞」()を設立し、優れた技能を持った世界各国の若者を表彰している。特に、自然保護に貢献のあった人物を表彰していることで有名である。2007年11月19日には結婚60周年を祝う祝賀行事が催された。英国の君主で結婚60周年を迎えるのは、エリザベスが史上初である。翌日からは新婚時代を過ごしたマルタを訪問した。90歳の誕生日である2011年6月10日に、イギリス海軍の最高指揮官である"Lord High Admiral"に就任した。エリザベス2世との間には3男1女がいる。フィリップは人種や性別に絡む発言をたびたび行い、問題となることが多い。また1978年に日本の皇室に宛て送ったイリオモテヤマネコの保護を訴える手紙の付属報告書の中に、住民の島外退去の提案などがあったため、西表島住民の強い反発を招いた。
出典:wikipedia
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