大和国(やまとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する。当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる。ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。その後、奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)に表記は「大養徳」に改められた。天平19年3月16日(747年4月29日)には元の「大倭」に改称。その後、天平宝字元年(757年)頃から「大和」に定められたとされる。平安時代以降は「大和」で一般化した。国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された(「大和」の項も参照)。大和国内には、これまでに度々天皇の住居(宮)が構えられている(詳細は皇居#歴代の皇宮を参照)。国府所在地を記した文献は次の通り。国府は、葛上郡掖上(現在の御所市東北部と同市名柄の二説あり)の地にあったが、平城京遷都に伴って8世紀に高市郡(『和名類聚抄』)の軽の地に移ったとされる。その後13世紀には平群郡(現在の大和郡山市今国府)に移った。このように国府は数か所に推定されているが、詳細は明らかでない。延喜式内社総社・一宮二宮以下はない。郡名は『延喜式』による。鎌倉、室町時代を通じて守護所は設置されず、興福寺がその役割を果たしていた。ただし、その守護権の行使については不明な点が多く、「興福寺別当が守護権限を行使していた」説、「一乗院・大乗院の両門跡が守護権限を行使していた」説、「両門跡のどちらかが興福寺別当の時は別当が、それ以外の者が別当の時は別当と両門跡が共同で守護権限を行使していた」説がある。但し、室町時代後期には宇智郡は河内畠山氏が、宇陀郡は北畠氏が、それぞれの分郡守護であったとする説がある。また、天正3年(1575年)に織田家臣の塙直政が織田信長から大和守護に任じられ、直政が天王寺の戦いで戦死すると天正4年(1576年)に筒井順慶が織田信長から大和守護に任じられている。
出典:wikipedia
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