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九州鉄道ブリル客車

九州鉄道ブリル客車(きゅうしゅうてつどうブリルきゃくしゃ)は、九州鉄道(初代)がアメリカ合衆国に発注し、1908年(明治41年)に竣工した特別客車である。明治時代末期の日本におけるもっとも豪華な設備を備えた客車であった。完成時点では九州鉄道がすでに国有化されていたため帝国鉄道庁(のちの鉄道院→鉄道省→日本国有鉄道)に引き継がれたが、十分に活用されることなく終わった。総称する正式な系列名や愛称がなかったことから、発注会社と製造メーカーにちなみ「九州鉄道のブリル客車」、「九鉄ブリル客車」などと呼ばれるが、鉄道ファンの間ではそのほかに「或る列車」(あるれっしゃ)という通称でも知られている。日露戦争後の1906年(明治39年)、九州鉄道のワンマン社長として知られていた仙石貢が、当時アメリカを代表する鉄道車両・台車メーカーであったJ.G.ブリル社に、5両編成の客車を発注した。鉄道国有法公布により九州鉄道が国有化された後の1908年(明治41年)4月から6月下旬、客車が米国より順次到着し、新橋工場で組み立てられた。これらは特別車(展望車)、1等寝台車、食堂車、1等座席車、2等座席車で組成された豪華なもので、乗り心地を良くするため3軸イコライザー式ボギー台車を履いていた。照明用として車軸発電機と蓄電池を搭載し、窓の上部にはステンドグラスがはめ込まれ、便所の窓は楕円形のステンドグラスが使われていたほか、全車とも内装にはマホガニー材を使用し、床には絨毯が敷かれ、特別車にはスタインウェイ・アンド・サンズ製のピアノが設置されていたという。車体は木造。車体寸法は車体長19.3 m、幅2.73 m、高さ3.89 mで、当時の日本においては超大型の客車であった。塗装は黄緑色とも青色ともいわれている。しかしこれを引き継いだ帝国鉄道庁(→鉄道院)では、わずか5両しかない豪華客車を定期運用するほどの適切な需要もなかったことから、専ら東京地区で外国貴賓(要人)用列車や団体専用列車用として使用した。現代のジョイフルトレインに近いものであったが、十分に活用されるまでには至らず、使用頻度は徐々に下がり、1923年(大正12年)に教習車に改造された。一時は車内に自動空気ブレーキの取り扱い研修機器類を搭載して各地の研修に巡回したこともあった。もっとも、これらの豪華な設備、特に展望車と食堂車の調度や車内レイアウトなどは、鉄道院になってから新橋工場で製造されたステン9020形などの設計に多大な影響を及ぼした。また、これらに装着されていた3軸ボギー式台車の機構、特に2つの上揺れ枕を「への字」形の側梁で連結して車体のボルスタ左右2箇所の側受(サイドベアラー)を支持する機構は、従来の台車左右側枠上部の前後で、つまり計4箇所で側受を支持する方法に比べて合理的でメリットが多く、以後の大正6年式台車やTR71、あるいはTR73などといった鉄道省制式客車用3軸ボギー式台車全形式に継承されており、ごく少数の輸入ではあったが、技術面でも大きな影響を残している。太平洋戦争後間もないころ、客車の不足から一部の車両が設備を取り払い、普通列車用として旅客列車に使用された例もあったが、1950年代中期までにすべて廃車された。なお、九州鉄道はブリル社に対して、増備車用と思われるこれらと同クラスの客車用台枠と3軸ボギー式台車を25両分同時発注していたが、こちらは日本到着後、新橋・神戸の両工場で当時量産中の基本形客車に準じた車体を載せて竣工している。形式名の「ブ」はメーカーの「ブリル」の略と見られる。1935年(昭和10年)10月に刊行された雑誌『鉄道趣味』3巻10号(通巻28号)で、鹿島正助(執筆署名は"機太郎")が“或る列車”と題した記事で九州鉄道ブリル客車を紹介し、続いて翌1936年(昭和11年)3月に刊行された同誌4巻3号(通巻32号)で荒井文治が“或る列車を見て”と題して事業用車に改造された後の食堂車に関する記事を執筆した。鉄道史の表舞台で活かされることなく終わったこのミステリアスな豪華編成に対する、懐古の念を伴った名表現というべきもので、以来日本の鉄道趣味界では、九鉄ブリル客車の別名として“或る列車”の呼び名が定着している。鉄道模型愛好家の原信太郎がこの車両を模型化した。車体色は金色で、外側窓下に板を張るなど、自身のオリジナルを加えたデザインとなっている。2015年、九州旅客鉄道(JR九州)がこの模型を元にしたデザインのD&S列車を「或る列車」の名で運行開始した。

出典:wikipedia

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