


ベッドフォード公爵()はイングランド貴族の公爵位。過去に5度創設されており、現存する第5期のベッドフォード公爵位は、廷臣ジョン・ラッセルが1539年に叙されたラッセル男爵位と1551年に叙されたベッドフォード伯爵位を前身とし、1694年に第5代ベッドフォード伯ウィリアム・ラッセルが叙されたのに始まる。爵位名はベッドフォードシャーのベッドフォードに由来する。1414年5月16日にヘンリー4世の第3子ジョン・オブ・ランカスターが一代限りの爵位としてベットフォード公に叙されたのが最初の創設である。彼は1422年にフランス占領地の摂政となり、百年戦争後期のイングランド軍を指揮し、ジャンヌ・ダルクを火刑に処したことなどで知られる。彼の死後、爵位は消滅した。ついで1470年1月5日に初代モンタギュー侯爵ジョン・ネヴィルの長男がベッドフォード公に叙爵されたが、1478年3月に「栄誉ある地位を保つだけの財産がない」とされて剥奪されている。その直後にエドワード4世の三男に与えられるも、夭折したため消滅した。1485年10月27日にはヘンリー7世の叔父でヘンリー7世の擁立に貢献したジャスパー・テューダーに与えられたが、男子がなかったために1代で絶えた。現在のベッドフォード公であるラッセル家の祖は初代ベッドフォード伯爵ジョン・ラッセルである。彼は貿易商をしていた1506年1月にドーセットに難破したマクシミリアン1世の長男フィリプとその妃フアナの通訳を務め、その功績でヘンリー7世の宮廷官に取り立てられた。続くヘンリー8世の時代にも外交官や枢密顧問官として活躍し、修道院解散で修道院所有の荘園を次々と獲得した。ベッドフォードシャーのミルトン・キーンズ付近にあるウォバーン・アビーの荘園やロンドン中心部コヴェント・ガーデンもこの時に入手している。ヘンリー8世の宮廷では粛清が相次いだが、彼は処刑されることなく、次のエドワード6世の時代まで宮廷で重きをなし続けた。1539年3月9日にはヘンリー8世よりベッドフォード州におけるチェニースのラッセル男爵( Baron Russell, of Chenies in the County of Bedford)、1551年1月19日にはエドワード6世よりベッドフォード伯爵()に叙せられている。その子である2代ベッドフォード伯は、エリザベス1世時代に外交官として活躍したことやフランシス・ドレイクの名付け親となったことなどで知られる。2代伯の跡は2代伯の三男ヘンリーの子であるが継いだが、彼には男子がなかったため、その死後、2代伯の四男初代の子である第2代ソーンホーのラッセル男爵が4代ベッドフォード伯を継承した。そのためこれ以降ノーサンプトン州におけるソーンホーのラッセル男爵(Baron Russell of Thornhaugh, in the County of Northampton)も従属爵位に加わる。また4代伯はウォバーン・アビーに邸宅を立てた人物であり、以降ここがラッセル家の本拠となる。4代伯の長男が初代ベッドフォード公に叙されることになる第5代ベッドフォード伯ウィリアム・ラッセルである。5代ベッドフォード伯の息子のラッセル卿(儀礼称号)ウィリアム・ラッセルは、ホイッグ党幹部、反カトリックの強硬プロテスタントとして庶民院で活躍した。そのため淫靡な風潮を好む国王チャールズ2世やカトリックの王弟ヨーク公ジェームズと対立を深めた。そんな中の1683年6月にライハウス陰謀事件(チャールズ2世やヨーク公を暗殺して、チャールズ2世の庶子でプロテスタントのモンマス公ジェイムズ・スコットを擁立しようとしたとされる計画)が持ちあがった。官憲の捜査の手はホイッグ党幹部に伸び、事件と関係がなかったラッセル卿も冤罪で逮捕された。ラッセル卿は裁判で無罪を主張したものの、結局大逆罪により死刑判決を受けた。父である5代ベッドフォード伯をはじめとする多くの人から助命嘆願が国王に寄せられたものの受け入れられず、7月21日に処刑された(ただしヨーク公が首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑を求めたのに対してチャールズ2世はそれを退けて貴族の尊厳を認めた斬首刑で死刑を行わせている)。1685年、カトリックのヨーク公がジェームズ2世として即位したが、1688年には名誉革命が発生し、ジェームズ2世は王位を追われ、プロテスタントのウィリアム3世とメアリー2世夫妻が新国王に擁立された。この影響で1689年の議会はラッセル卿の大逆罪を否認する決議を出し、その名誉を回復した。ついで1694年5月11日には息子を冤罪にかけたお詫びとして81歳になっていた5代ベッドフォード伯がベッドフォード公爵(Duke of Bedford)とタヴィストック侯爵(Marquess of Tavistock)に叙されたのだった。1700年の初代ベッドフォード公の死後、爵位はその孫にあたる(処刑されたラッセル卿の遺児)が継承した。彼は襲爵前の1695年5月に資産家ジョン・ホウランドの娘で女子相続人のエリザベス(Elizabeth Howland)と結婚しており、これによりベッドフォード公ラッセル家は10万ポンドの遺産とロンドン・をはじめとするホウランド家の所領を相続し、イングランド四大資産家の一家に数えられるようになった。また、この結婚を機に祖父が1695年6月13日にカウンティ・オブ・サリーにおけるストリーサムのホウランド男爵(Baron Howland, of Streatham in the County of Surrey)に叙されている。2代公の同名の子で3代ベッドフォード公を継承したは、ギャンブル好きでプロのギャンブラーの餌食となり25万ポンドも失ったが、マールバラ公ジョン・チャーチル夫人サラ・チャーチルの財政援助や跡を継いだ弟の4代ベッドフォード公ジョン・ラッセルの努力で財産を回復させ、デヴォンシャー公爵、ノーサンバーランド公爵、ブリッジウォーター公爵とならぶ4大資産家の地位を取り戻した。また4代公は軍人として中将まで昇進した他、政界でもホイッグ党の派閥の長としてや国璽尚書などの閣僚職を歴任した。4代公の子である5代公と6代公ジョン・ラッセルは共に浪費家で散財したが、6代公は王立植物園キューガーデン創設に貢献している。また6代公の妻ジョージアナ(第4代トリントン子爵の娘)からの遺伝でベッドフォード公爵家にメランコリーが流れ込んだ。これ以降の当主は多かれ少なかれメランコリーに苦しむことになる。6代公の長男である7代公は徹底した緊縮により家計の立て直しに努めた。しかし使うべき時には決して出し惜しみせず、彼の妻アンナも客人をよくもてなし、イギリスの「5時のお茶(five o'clock tea)」の風習はアンナのもてなしを起源としている。またホイッグ党(自由党)の政治家である次弟(6代公の三男)ジョン・ラッセル卿への金銭支援も欠かさなかった。その結果ジョン・ラッセル卿は政界の中心として活躍し続けることができ、首相(在職1846-1852、1865-1866)や外務大臣(在職1852-1853、1859-1865)を歴任し、1861年にはラッセル伯爵に叙されている。その子孫第3代ラッセル伯が哲学者と知られるバートランド・ラッセルである。7代公の息子である8代公は重度のメランコリーに苦しみ、生涯結婚しなかった。彼の死後に爵位は6代公の次男ウィリアムの子であるが継承したが、彼もメランコリーに苦しみ、拳銃自殺するという衝撃的な最期を遂げた。その子が10代公となったが、襲爵から2年後には急死したため、弟のが11代公を継承した。11代公夫妻は動物を共通の趣味とし、犬、猫、鹿、鳥類などを収集した。これが後のサファリパーク開園につながる。妻メアリーは活動的な女性で晩年にはパイロットとして自家用飛行機で飛び回っていたが、1937年に航空事故死した。夫の11代公もその3年後に死去した。11代公は息子と仲が悪かったため、相続税対策が遅れ、財産税攻勢の直撃を被った。ロンドン・コヴェント・ガーデンの土地はこの際に手放している。11代公の息子である12代公は、第二次世界大戦中に貴族院で戦争反対を訴え続けたため、「ファシスト」だの「共産主義者」だのと誹謗中傷された。迫害に晒される12代公は人間に嫌気がさし、「動物は自分を裏切らない」と語って父同様動物収集にはまるようになった。また狩猟好きでもあったが、1953年秋に領地での狩猟中に行方不明となった。捜索の結果、藪の中で散弾銃を受けた12代公の遺体が発見された。この不可解な死をめぐる真相は未だ不明である。貴族に対する過酷な相続税攻勢は1954年の改正で緩和されるが、12代公の不審死はそれにぎりぎり間に合わず、公爵家は再び相続税の直撃を被り、更なる土地の売却に迫られた。ベッドフォード公爵家の所有地はついに本拠のウォバーン・アビーの屋敷と領地だけになってしまった。家計の立て直しのために13代公は先祖の収集した動物をサファリパークにして開園した。2015年現在の当主はその孫である15代公である。ベッドフォード公爵ラッセル家のモットーは「なるようになる(Che Sera Sera)」。上記の経緯から現在の当主15代ベッドフォード公爵は以下の爵位を保有している。ベッドフォード公爵家の法定推定相続人は父が有する爵位のうちタヴィストック侯爵を儀礼称号として使用する。またその次の法定推定相続人(嫡流の孫)はホウランド男爵を儀礼称号として使用する。法定推定相続人は2005年6月7日に誕生した当代の長男のタヴィストック侯爵(儀礼称号)ヘンリー・ラッセルである。
出典:wikipedia
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