国際興業バス西浦和営業所(こくさいこうぎょうバス にしうらわえいぎょうしょ)は、埼玉県さいたま市桜区桜田2-1-5に位置する国際興業バスの営業所である。さいたま市(浦和区・桜区(旧:浦和市)・中央区(旧:与野市)・南区・緑区)・志木市・朝霞市・新座市・富士見市・ふじみ野市のJR京浜東北線と東武東上線に挟まれた広いエリアに路線を持つ。かつては和光市および東京都板橋区にも乗り入れていた。首都高速埼玉大宮線直下の新大宮バイパス沿いに位置するため、バス通用口は全10営業所内で唯一、左折出場・左折入場である。また、観光さいたま営業所を併設している。2007年3月18日からICカード乗車券(PASMO/Suica)が練馬と共に開始された営業所である。1993年3月16日に、川越営業所志木分車庫・観光川口営業所の両方の機能を移転することによって開設された。ここでは、前身の志木分車庫および志木周辺における車庫開設前の路線状況を含めて記述する。東武東上本線志木駅周辺の路線の歴史は、鳩ヶ谷営業所が浦和 - 志木線(現:志01)を開設したことに始まる。この路線が志木地区乗り入れ路線の第一号で、終戦を経てから西武自動車との共同運行路線として浦和 - 志木 - 所沢線が新設された。これは前述の浦和 - 志木線の延伸に当たるが、志木地区の路線網拡大はそれで終わらず、大宮 - 志木線、浦和 - 朝霞 - 志木線、池袋 - 志木線などが次々に新設されたが、当時は志木周辺の市街化が進んでおらず、加えて西武・東武との競合区間も多かったことで本数は少なかった。それによって路線を担当する営業所も練馬・浦和・大宮・巣鴨・川越など、複数の営業所が分担して担当していた。1960年代に入ると、志木周辺では中野下住宅を初めとする住宅・団地が相次いで造成され、これに伴って路線バスの運行密度も住民の貴重な足として徐々に高まっていった。こうしたことから、1965年12月16日に北足立郡足立町(当時)幸町に川越営業所傘下の志木分車庫が新設され、車両は26台が在籍、志木周辺路線の多くを同車庫が担当するようになった。志木分車庫の所管地域は、1980年代に入ると東武東上線と営団(当時)有楽町線の相互直通運転が開始したり、1985年10月1日には国鉄(当時)埼京線が開業するなど交通の便が一気に改善し、東京のベッドタウンとして宅地化が進んだ。これと同時に志木分車庫管轄エリアは運行強化が必要とされたが、以下の問題点が原因となって困難を極めた。これを背景に、国際興業では志木を含む埼玉県南部の荒川流域における路線の運行を強化することとなった。そして1993年3月16日、浦和市(当時)桜田に志木分車庫・観光バス川口営業所(川口市西青木・乗合川口営業所とは別所)の機能を移転し、両所を統廃合する形で「国際興業バス西浦和営業所」を開設した。これにより志木分車庫への出入庫系統であった志木駅 - 市場坂上線(初代志80)等の廃止、志木駅・浦和駅の両方向への出入庫系統の新設、長距離路線の浦和駅 - 朝霞 - 志木駅線(志02)が、営業所近くの「新開入口」まで短縮されるなどの再編が実施された。その後も出入庫系統を中心にいくつかの系統で起終点の変更等があったものの、開設からしばらくの間は乗合バスの営業範囲は志木分車庫時代とほぼ同じであった。その後、1998年7月16日に練馬担当であった練馬車庫・成増駅入口 - 朝霞台駅線(練96、旧・増15)が廃止され、代替として西浦和が朝霞台駅 - 湯~ぐうじょう(現:内間木)線などを開設した。次いで、2000年10月16日に浦和・大宮両営業所が廃止され、さいたま市東部に移転・統合してさいたま東営業所となったことにより、両営業所からJR京浜東北線以西の路線を多数移管させた。これにより、路線網は西堀・大久保・白鍬・さいたま新都心など、現在のさいたま市桜区・中央区のほぼ全域にまで手を広げた。さらに、2003年に朝霞駅南口広場が整備されたことにより同駅を起点とする再編が実施され、朝霞市を通る路線のうち練馬担当で残っていた2路線が短縮・移管され、朝霞市を通る路線は全て西浦和の担当となった。以上のように周辺営業所からの路線移管が続き、西浦和営業所は現在の規模となった。なお、志木分車庫の管轄営業所であった川越営業所は、西浦和営業所の開設と同時に同所の分車庫に格下げとなったのち、1995年1月16日に廃止となっている。これについては後に記す。1965年3月1日に開業した(初代)浦和駅 - 西堀 - 北浦和駅線が由来で、それ以降40年近くに渡って同経路で運行されていた。しかし、2003年11月16日より(2代)浦和駅 - 桜区役所に変更された。その路線も僅か1年強で手入れが行われ、2004年12月10日より(3代)浦和駅 - 市役所前 - 西堀 - 中浦和駅 - 県庁前 - 浦和駅という循環路線(午前が市役所前先回り、午後が中浦和駅先回り)となった。その循環運行も、2011年11月1日のダイヤ改正で2代目の経路に再変更され、西堀循環と関連する出入庫の枝系統は廃止された。浦11-2は、1993年の西浦和開設時に志01の出庫用として南元宿 → 西堀 → 浦和駅西口として開設された。浦和から移管された浦11と異なり、当初から西浦和担当(入庫は旧・浦12)である。 1997年4月16日より旧・浦12と統合し西浦和車庫発着となり現在の形態となった。浦11移管前は浦和・西浦和のそれぞれでダイヤを組んでいたためか、浦11・11-2が同区間を同時刻で運行することがよく見られた(同系統は営業所の立地上により往復で経路が異なっている)。2011年のダイヤ改正で大半が新・浦11に振り替えられ、特に車庫発は大幅に減便となった。浦和駅から主に六間道路を走り、桜区西部の大久保に向かう。桜区中北部と浦和の中心街を結ぶ唯一の公共交通機関で、朝夕時間帯運行の「常盤四丁目経由」(浦12・浦13・浦13-2)と、日中時間帯運行の「市役所前経由」(浦12-2・浦桜13-3)の2ルートが存在する。さらに大久保浄水場発着のうち「浦桜」と付く系統(現在は浦桜13-3のみ)は桜区役所にも立ち寄る。東京周辺で広く使われているターミナル記号+数字による系統番号の中で、このように経由地を示す記号を付け加えるケースは珍しい。日中時間帯は等間隔でパターン化されており、桜区役所折返し(浦12-2)と大久保浄水場行き(浦桜13-3)が交互に運行される。桜区の中北部は、1955年以前は土合・大久保という2つの村が残っていたところで、この線は昭和20年代末にその土合村への足として開通したものである。昭和30年代に入ると大久保方面に延長されたが、当時の浦和市勢要覧には「千貫樋(せんがんぴ)」という終点が図示されている。1965年頃には「大久保農協」を終点としていたようで、現在の大久保支所付近と思われる。現在はさらに先の大久保浄水場まで延長されているが、終点付近は農村の面影を色濃く残している。2010年2月8日のダイヤ改正では市役所前経由の浦12-2が新設され、平日日中は全便が市役所前経由での運行になった。2011年3月16日のダイヤ改正では、平日夕以降及び土休日日中の浦和駅 - 桜区役所間の増回、浦13-2(深夜バス)の新設などが行われた。なお、2011年11月の改正で浦11が経路変更されたことにより、再び輸送力の調整が行われた。2014年3月16日のダイヤ改正では、土休日(日中時間帯)の浦12を浦12-2に振り替え、さらに浦桜13を廃止し浦桜13-3に振り替えたことで、土休日も含め日中の全便が市役所前経由での運行になった。2011年9月1日にさいたま東から移管。西浦和で唯一JR京浜東北線の東口側を走行する路線で、浦和駅から太田窪・駒場運動公園を経由して北浦和駅へ向かう。全日とも10 - 15時台までは全便が北浦和ターミナルビル発着となっている。なお移管時に、さいたま東の出入庫であった浦51-2・北浦90は廃止された。2016年1月16日より浦和駅西口まで延伸し、東口ロータリーには乗り入れなくなった。さいたま新都心駅から白鍬電建住宅を経由して北浦和駅へ向かう路線で、2000年4月1日にさいたま新都心駅が開業するのと同時に新都01(初代)および新都02が新設された。白鍬地区からJR埼京線・京浜東北線どちらも利用できる点が最大のウリで、当初は与野本町駅までの運行であったが、2003年11月16日の改編によって与本01の代替で北浦和駅発着へ変更された。新都02・北浦04は、主に新都01が運行されない早朝・夜間に運行される。白鍬電建住宅および新中里三丁目はバスの待機場となっており、職員待機用のプレハブ建物が置かれている。新中里三丁目発着の北浦81は平日1日1便のみの運行で、その他の車両待機は回送で行っている。白鍬電建住宅へは、日中を北浦05(北浦和駅 - 白鍬電建住宅 - 与野駅)、朝夕は電建住宅折返しの与02・北浦04が運行する単純な形態であったが、1985年10月1日の国鉄(当時)埼京線開通後は開設された与野本町駅への立ち寄りが始まり、1998年11月16日の改編で与本01(与野本町駅 - 白鍬電鍵住宅 - 北浦和駅)新設による与野駅乗入れ便削減と共に、白鍬・神田地区から陣屋経由で与野本町へ向かう与本02(2003年11月16日改正より与本04)が追加された。また、2000年4月1日のさいたま新都心駅開業によって新都01(初代)と新都02を新設、これにより北浦和 - 陣屋 - 白鍬電建住宅 - 与野本町線と与野本町 - 陣屋 - 白鍬電建住宅 - さいたま新都心線の2系列が並存するようになったが、2003年11月16日の改正で新都01は北浦和駅発着となり、現在の与野本町駅発着は、白鍬循環(与本05)と、早朝・夜間運行の陣屋回り白鍬電建住宅発着(与本04)の2路線が運行されている。北浦和駅西口から国道463号(埼大通り)を直進し埼玉大学へ向かう路線。北浦03の本数自体も多いが、南与野駅(北入口/西口) - 埼玉大学間は志03-3や北朝02などの路線が並走する。2007年11月21日より、北浦03の深夜バスと南与01が新設された。2012年4月1日、南与02が新設された。南与02は、新設当初は南与野駅方面のみの運行であったが、2015年4月1日より下大久保方面が新設された。2000年10月16日のさいたま東開設時に新設された出入庫路線で、西浦和車庫発は直接南元宿に向かっていたが、2003年11月16日より営業所のすぐ北の流通センター交差点で折り返すことで、田島・西堀を両方向とも経由することになった。前述の通り、鳩ヶ谷自動車(現:鳩ヶ谷営業所)によって開設された古い路線で、志木駅発着路線の最主力路線。開業当初から志木駅 - 浦和駅を結んでおり、東武東上線との連絡切符を発行して利用促進を図っていたとの記録が残っている。日中は20分間隔と多くないが、路線の中間部で秋ヶ瀬橋を渡る下宗岡三丁目 - 高畠間以外は、志05・浦10(戸田担当)・浦11のような並行路線が補助的に走り、円滑な運行が確保されている。国鉄(当時)武蔵野線開業(1973年4月1日)も相まって徐々に運行回数が減回されたが、現在も主要路線として運行されている。志80は、宗岡小学校近傍にある待機場への出入り用として、2004年12月10日に新設された。2007年1月16日より、志01-3(新開入口 → 志木駅)が西浦和車庫始発に改められて志01-2に統合されたが、2011年3月16日より復活した。2000年代に入ってから、志木在住の上田清司(埼玉県知事)が2003年8月1日の初登庁時に志01を利用したことや、2003年6月20日には秋ヶ瀬橋周辺の荒川で「タマちゃん」の愛称で親しまれたアゴヒゲアザラシが発見されて記念のバス共通カードが発行されるなど、何かと話題が多い路線である。原型は大11(志木駅 - 埼玉大学 - 大宮駅)であったが、与野駅(与01)・北浦和駅(北浦06)・与野本町駅(与本03)と、JR京浜東北線または埼京線側の発着駅の変更を経て、北浦05の廃止と与02の大減便(与野駅発の夜1便のみ)を受けて、与野駅 - 与野本町駅を補完するように与野駅まで再延伸(志03)された。このように幾度と経路変更、路線の新設・廃止を経て、現在は志木 - 南与野線(志03-3)と北朝霞 - 南与野線(北朝02)のみが残る。2004年からは埼玉大学の登下校時間帯に運行する埼玉大学発着便(志03-2)を新設した。2007年11月21日に志03-3新設とともに志03の本数が減少、2009年4月1日の改正で志03は与野駅発1本のみの運行となり、志03-3が増回された。2010年2月8日の改正では志03-2が平日夕方の埼玉大学発1本となり、志03-3が全日にわたり増回された。2010年4月1日の改正で志03、2011年3月16日の改正で志03-2が廃止されたが、現在でも枝番は残されたままである。1972年に開業して以来、中野下引返場線として1時間に概ね1 - 2本程度の運行を維持してきたが、2003年11月16日の改正で大幅に減便、1日1往復となった。この減便については沿線に対して十分に周知が行われなかったためか沿線住民から不満が続出し、志木市議会でも取り上げられるまでになった。そのため、2004年2月1日の改正で志01-2・01-3・05-3を振り替える形で5往復程度まで増便された。2011年3月16日の改正で、市場坂上経由から志木市民会館経由に経路変更し、さらに日本ワイスレダリー(現:ファイザー)の製薬工場跡地を開発した「志木の杜」回りに経路変更の上で柳瀬川駅まで延伸(中野下引返場は廃止)した。平日の日中時間帯は、志04-2として志木市役所の正面玄関前に遠回りし停車する(志木消防署⇔志木市役所前⇔柏町一丁目)。2013年1月16日より志04-3が新設された。中野下付近が狭隘路であるが、引返場線時代は大型車が使用されていた。しかし、延伸区間の第二福祉センター前 - 志木市武道館前間がさらに狭隘路であるため、日野リエッセなどの小型車で運行されている(志04-3のみ大型車で運行)。志木駅から宗岡地区を循環する路線で、終日「宿回り」と「宗岡回り」の両方が運行される。宿回りはいろは橋出発後、宗岡回りは宗岡出発後に左折し、ラケット上の経路となる。志05-3は宿回りの区間便で主に出入庫であるが、一部に往復運用も存在する。志木分車庫が設置される以前から運行され、西武バスとの共同運行である。終点の凸版印刷は「凸版印刷株式会社朝霞工場」で、現在運行しているのは直行便であった志09(2010年9月16日廃止)の各停便である。2005年5月16日の改正で、夕方の志木駅発が全て志09-2となった。2010年9月15日に志09が廃止され、全便が志09-2となった。朝霞駅南口ロータリーが完成するまで、志木駅から朝霞駅を跨ぎ湯~ぐうじょう方面へ向かう路線が主流であったが、同ロータリー完成後の2003年11月16日の改正で同駅を起点とする再編が実施され、朝霞駅南口で分割されて現在の形になった。なお、2008年4月1日の朝霞駅東口(旧・北口)ロータリー完成後は乗入れを開始すると同時に南口 - 東口の営業を止めたため、朝51・51-2が廃止されている。現在は6時台より終日30分間隔で運行されているが、両方向とも20時台で終車となる。現在の系統番号と元番号の対比国際興業で朝霞台駅南口に乗り入れるのは朝12だけで、運行本数も平日早朝1往復のみと少ない。朝霞台駅への乗り入れが開始されたのは1976年で、当時練馬が運行していた「下赤塚 - 志木線」の終点を朝霞台駅に切り替えたことによるもの。1976年の改正で西武バスとの路線調整によって、朝霞台駅周辺は西武が担当することとなったため、国際興業は下赤塚 - 朝霞台線を最小限度の本数で運行するに留まっていた。その後、起点が練馬車庫・成増駅入口に変更されたが、成増側の乗客が著しく少ないことや、営業所から離れ過ぎていることから1998年の改正で廃止され、代替として朝43(朝霞台駅 - 湯~ぐうじょう)が新設された。さらに2003年11月16日の改正で、周辺各線と同様に朝霞駅で切られて主体が朝12、2011年3月の改正で現在の運行本数になった。朝13は国際興業の独自区間である桜ヶ丘 - 膝折坂下間の輸送に重点が置かれ、2010年2月8日の改正までは朝夕のみ運行だったが、この改正により末無川 - 朝霞駅南口は日中15分間隔となった(朝11を30分間隔に減便し、当該区間は朝11・13が交互運行)。以前は朝霞市内循環として西武によって運行され、1976年の再編時に国際興業へ移管された。移管後は終点を丸沼、さらに湯~ぐうじょうへ延伸したが、2003年11月16日の改正で朝霞駅起点へ変更、所管も練馬から西浦和に移り、案内もコミュニティバスと紛らわしかった「朝霞市内循環」の名称を廃止し、「朝霞南口循環」に改められた。前述の、志木駅 - 朝霞駅 - 湯~ぐうじょう(志11→朝51)などが母体で、朝霞駅南口ロータリー完成によって、2003年11月16日から朝霞駅発着が新設された。当初は朝霞駅南口発着で運行されていたが、朝霞駅東口(旧・北口)のロータリーが完成したため、2008年4月1日より乗入れを開始すると同時に東口発着へ改められた。なお、終点の内間木は、朝霞市の運営する公衆浴場「湯~ぐうじょう」がオープンした翌年の1998年8月に延長したもので(それまでは1つ手前の丸沼で折返していた)、停留所名も当初は「湯~ぐうじょう」であった。しかし、湯漏れや地盤沈下などの問題が発覚し、湯~ぐうじょうは2006年4月以降営業を休止、その後10年近く停留所名だけがそのまま残っていたが、2015年10月1日に「内間木」へ改称した。同時に、2008年4月1日に「宮台」から改称した「積水化学」停留所も、積水化学の工場閉鎖に伴い再び旧名称へ戻した。(東武バスウエスト新座営業事務所と共同運行)北朝霞駅側から宮戸・下宗岡地区を循環する路線で、平日ラッシュ時間帯を除き同一時間帯には国際興業・東武のどちらか1台のみで運行される。また、1年ごとに東武バスと運行便の入れ替えを実施している。2010年12月1日新設。北朝霞駅 - 宗岡間は北朝01と並走するが、途中の浄水場入口・宮戸・宮戸郵便局・宝蔵寺の4停留所には停車せず、直通で運行する。また、北朝霞駅では東口ロータリー内の乗り場は使用せず、西口のジョナサン向かいの停留所から発車する。ららぽーと富士見のオープンに伴い、2015年4月1日に新設。この路線の開設により、国際興業バスはふじみ野市内へ初進出、また富士見市内へは志06(立教グランド線)の廃止以来5年ぶりの乗り入れ再開となった。また、宿 - 立教グランド間は実質、路線復活となった。1989年12月13日に新設された、国際興業のミッドナイトアローとしては最も古い路線で、国道17号(中山道)を北上し大宮駅へ向かう。2009年3月16日にソニックシティ前(大宮駅西口)停留所が新設された。さいたま新都心駅は成田空港行きが始発から3便のみ、成田東武エアポートは成田空港行き最終から3便のみが停車する。浦和羽田線開業に伴い、2013年12月16日より戸田から移管された。さいたま市コミュニティバスを参照。西浦和は桜区役所線を受託・担当している。朝霞市内循環バスを参照。朝霞市より運行受託され、東武バスウエスト新座営業事務所・西武バス新座営業所と共同運行。路線廃止後に名称変更が実施された停留所については旧称とする。他の営業所同様に一般路線用がいすゞ自動車製だが、コミュニティバス専用車は日野自動車製である。開設時には、志木分車庫と観光川口営業所の現役車両が集約され、移転に伴い志木分車庫の車両は西浦和営業所の開設数日前より志木市管轄の所沢ナンバーから浦和市(当時)管轄の大宮ナンバーへと変更された(1982年2月1日に所沢ナンバーが設けられた以前に志木分車庫に配置された車両は大宮ナンバーであったため、変更なし。但し、現在は志木分車庫に所属していた車両は全車引退済み)。CNGノンステップバスが配置されていたが、特に3901号車(いすゞKC-LV832L改・新製配置は浦和営業所)は民営事業者初のCNGノンステップバスであった。補助金の関係から、北浦03や浦桜13-3などで優先的に使用されていたが、末期には補助金による縛りが解けたためか志01などの荒川を渡橋する系統や、サクラディアの特送などにも使用されていた。現在は山梨交通に移籍して稼働中である。昭和35年開設。川越市神明町に位置していた国際興業の営業所で、傘下に志木分車庫を置いており、国際興業唯一の所沢ナンバー観光車が在籍していた。当時の所属台数は乗合10台・観光11台。営業所敷地は東武バス川越営業所(現・東武バスウエスト川越営業事務所)と道路を挟んではす向かいにあり、最寄り停留所名や方向幕では「神明町車庫」と表示、車内放送や運賃表示器の次停留所案内では「川越神明町車庫」で案内されていた。川越駅西口と高萩駅をターミナルとして、国鉄(当時)川越線沿いの川越市西部 - 日高市を主な営業エリアとしていた。最盛期の1950年代半ばから1960年代後半頃には、当時非電化かつ列車本数の少ない国鉄の足代わりとして、飯能と共同運行で飯能駅 - 高麗駅 - 高麗川駅 - 高萩駅 - 笠幡駅 - 西川越駅 - 本川越駅 - 川越駅線などの長距離路線などが活躍していたが、川越地区の国際興業は東武・西武に押されて路線密度・運転本数とも低調だった。さらに、などによって、西浦和営業所川越分車庫に降格される。分車庫となる以前から、傘下の志木地区の路線が活発だったこともあって立場が逆転していき、西武バスへの路線移管を経て1995年1月に完全閉鎖された。この川越分車庫の閉鎖を持って国際興業から営業所傘下の「分車庫」が消滅した。閉鎖に伴い、路線車は1台のみ在籍していたいすゞCLM470は除籍となったが、他の車両は1台のみ在籍していたジャーニーが練馬へ、キュービックは戸田・鳩ヶ谷・飯能に、観光車は西浦和へそれぞれ転属した(但し、現在は川越営業所及び川越分車庫に所属していた車両は全車引退済み)。また、乗務員の大半は西浦和へ異動したものの、一部は飯能へ異動したり、中には東武バス川越営業事務所へ移籍した者もいた。西武バスへ移管された路線のうち、川越駅発は路線短縮・減便による縮小傾向の一方で、新規路線開拓によってかすみ野(旧・霞ヶ関団地)方面の路線が川越市西部地区での経路変更・ダイヤ改正を実施、新経路として沿線にある尚美学園大学への利用手段や、大学近くにあるハローワークへの利用手段の目的強化を行うなど、新たな利用客獲得に成功している。西武が国際興業から移管された高萩駅・高麗川駅周辺の路線は、2006年4月1日に西武バス飯能営業所からイーグルバスへ再移管されている。2013年現在、川越分車庫の跡地はAOKI川越神明町店となっている。1994年5月1日(当時)の西浦和営業所川越分車庫の担当路線は以下の通り。
出典:wikipedia
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