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英一蝶

英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))は、日本の江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄(やすかつ?)、のちに信香(のぶか)。字は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(いさぶろう)、次右衛門(じえもん)、助之進(すけのしん。もしくは、助之丞[すけのじょう])。剃髪後に多賀朝湖(たが ちょうこ)と名乗るようになった。俳号は暁雲(ぎょううん)、狂雲堂(きょううんどう)、夕寥(せきりょう)。名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。なお、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。承応元年(1652年)、多賀伯庵(たが はくあん)の子として京都で生まれる。父・伯庵は伊勢亀山藩の侍医(藩お抱えの国許の医師)であったが、一蝶が15歳の頃(異説では8歳の頃)、藩主の石川憲之に付き従っての江戸詰めが決まり、一家で江戸へ転居する。絵描きの才能を認められた一蝶は、藩主の命令で狩野安信に入門するが、のちに破門されたといわれる。多賀朝湖という名で「狩野派風の町絵師」として活躍する一方、暁雲の号で俳諧に親しみ、俳人・宝井其角、松尾芭蕉と交友を持つようになる。書道は玄竜門下に学ぶ。名を江戸中に知られるようになり、町人から旗本、諸大名、豪商まで、広く親交を持つようになる。版画の作品はないが肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残している。また、吉原遊廓通いを好み、客として楽しむ一方で自ら幇間としても活動していた。その話術・芸風は、豪商や大大名すらもついつい財布を緩め、ぱっと散財してしまうような見事に愉快な芸であったと伝わっている。元禄6年(1693年)、罪を得て入牢する。理由は不明で、2ヵ月後に釈放される。元禄11年(1698年)、今度は生類憐れみの令に対する違反(後述)により、三宅島へ流罪となった。配流中の罪人には、親族から年数度の仕送り(物品)が許されていたが、一蝶は制限ある仕送りに毎度のように画材を要求し、江戸の自分を贔屓にしてくれる人々や島で自分に便宜を図ってくれる人達のため、さらには江戸に残した家族(母)の家計のために、絵を描き続けた(現在も新島、御蔵島にその頃の絵が残る)。乏しい画材を駆使しての創作活動であったが、江戸の風俗を見てきたように活き活きと描いたり、島民の求めに応じて描いた多数の縁起絵などが残されている。一蝶はいつも江戸のほうに机を向け、創作活動をしていたと伝わり、そこから「北窓翁」の雅号が生まれた。この時期の風俗画は、推定も含め「四季日待図巻」「吉原風俗図巻」「布晒舞図」「松風村雨図」の4点確認されている。画材こそ良質とはいえないが、江戸を偲び、わが身を省みて心情を託して描かれた作品群は、一蝶の代表作のひとつとして知られる。この時期に描かれた作品を特に島一蝶と呼ぶ。また、配流中の元禄15年(1702年)に、随筆『朝清水記(あさしみずき)』を記す。島ではしかし割と自由な暮らしをしており、世話をしてくれていた名主の娘との間に、子を成している。(後述)宝永6年(1709年)、将軍・徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦によって許され、12年ぶりに江戸へ帰る。この頃から英一蝶と名乗り、深川の宜雲寺に住まい、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけた。また、吉原での芸人活動も続けていたらしく、共に豪商の奈良屋茂左衛門や紀伊國屋文左衛門らとの交遊の話が伝わる。江戸に帰った一蝶が、島流し以前に自身が描いた四季絵を見せられて、喜び懐かしんで書いた一文が『浮世絵類考』に収録されている。「此道(岩佐又兵衛・菱川師宣などによる画)予が学ぶ所にあらずといへども 若かりし時あだしあだ浪のよるべにまよひ 時雨朝がへりのまばゆきもいとはざるころほひ 岩佐菱川が上にたゝん事を思ひては」、自らもそういう浮世絵のような風俗画を描いたと述懐しており、この文からは岩佐・菱川両者の作品群に対する一蝶の意識を感じられる。享保9年(1724年)、死去。享年73。戒名は英受院一蝶日意居士。東京都港区高輪二丁目の承教寺顕乗院に墓所があり、大正13年(1924年)2月には東京府知事によって史跡に指定された。辞世の歌は「まぎらはず浮世の業の色どりも有とて月の薄墨の空」。配流以前の画風は、当時すでに形式化しつつあった狩野派を学びながらも浮世絵に惹かれ、古典の軽妙なパロディや俳諧趣味を加味することで、浮世絵の大家である岩佐又兵衛や菱川師宣を超える新しい都市風俗画を目指した。また、水面や障子に映る影を描くといった、新しい表現にも挑戦している。島流し時代は、島民の求めに応じて天神(菅原道真)や七福神の絵を描き、生活の糧としていた。江戸復帰以後は、大作を含む多くの作品を残し、市井の風俗や生活を採り入れた、良い意味での俗っぽさ・町絵師らしさがある、と言われる。一蝶には師宣の作品に倣ったことを明記した作品がある。「業平涅槃図」がそれで、「以菱川師宣圖蹟 北窓翁一蝶書」と落款している。在原業平の死を釈尊の涅槃に見立てた物で、北枕の業平を、歎き悲しむ老若の女性や鶴や鹿といった鳥獣が取り囲む、という諧謔味の強い作品である。師宣の父は上総国の松翁院のために縫箔の大涅槃圖を制作し、自身にも『無常重夢物語』(無款、刊行年未詳)の挿絵に涅槃図があることから、師宣は何度か涅槃図を描く機会があったと想像できる。しかし、師宣の作品には諧謔性の強い物や見立絵は皆無に等しく、業平涅槃図のような作品を残したとは考え難い。一蝶は、師宣の業平涅槃図を見て、この図を制作したのではなく、師宣の新様式ではあるが常態の釈迦涅槃図を見たのであって、業平に転化させたのは一蝶自身ではないかと想像される。浮世絵に俳諧的見立による作品が盛行するのが正徳頃からであること、そして、一蝶の俳趣味の強さがそれを裏付ける。芭蕉や其角との交友関係、つまりは一蝶自身を含む当時の芸術サロン的な人々(文化人や趣味人、後援者ら)との交流は前述したとおりであるが、漆芸家や金属工芸作家ら、当時の江戸を代表するような芸術家・工芸家らとの交流もあった。漆芸家・小川破笠(同郷伊勢国出身)などが有名で,破笠も一蝶に師事している。また、遊びを通して豪商や旗本・大名ら、身分の違う人々との交流もあった。英派(英流、一蝶流とも)と呼ばれる彼の画業の弟子には、佐脇嵩之(英一水。代表作:『百怪図巻』)とその弟子達や、一蜂、一舟らがいる。一舟は弟子であったが後に一蝶の養子となり、英家(英流)二代目となった。島流し時代に子を成したが、赦免後には江戸に連れ帰り画を学ばせた。長八信勝と呼ばれた長男はのちに英一蝶二代を名乗るが、その後一蝶と不和になった。次男の百松信祐もまた父に画を学び英一蜩と名乗り、のち久留米藩に仕えたとされている。そのほか、福王流能楽師・九世福王盛勝も一蝶の弟子であり(ただし後に土佐派を慕ったという)、福王雪岑の画号で知られ、能や狂言の絵を数多く描いた。当時幕府は、元禄文化の過剰な華やかさ、つまりは風紀の乱れ、特に武士や大名らの綱紀を粛正しようと試みていた感がある。元禄6年(1693年)には「大名および旗本が吉原遊郭に出入りし、遊ぶこと」を禁じている。島流しに至る経緯については、などの諸説があるが、「正式な罪状として採用された」のは、“釣り罪”であるらしい。

出典:wikipedia

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