「ロンドンデリーの歌」("Londonderry Air")は、アイルランドの民謡である。イギリス領北アイルランドでは事実上の国歌としての扱いを受け、アイルランド移民の間でも人気が高い。世界で最も広く親しまれるアイルランド民謡の一つである。様々な歌詞によって歌われ、特に「ダニー・ボーイ」のタイトルのものが有名である。曲のタイトルは北アイルランドの州の名に由来する。この曲はロンドンデリー州(デリー州)リマヴァディのジェイン・ロスにより採譜された。彼女が聴いたのはタイトルも歌詞もない器楽曲としての演奏だったが、いつどこで誰から聴いたのかなどについて詳しいことはわかっていない。ロスはこれを音楽収集家のジョージ・ペトリに預け、この曲は彼の編纂による1855年発行の「The Ancient Music of Ireland」(アイルランドの古代音楽)に収録された。この書物には無名の曲としてリストされたが、「ロンドンデリーのジェイン・ロスの収集による」という註がつけられたため、この曲は「ロンドンデリーの歌」として知られることとなった。この曲の起源についての詳細は長い間謎に包まれていた。というのもロス以外の収集家にはこのメロディーと出会った者がなく、知られている例はいずれもペトリの発表に由来するものだったからである。もう一つの謎はその音域の広さである。特に曲の終盤の旋律は極めて高い音域に遷移しており、この部分はプロの歌手にとっては聴かせどころとなっている一方で一般の人にはなかなか歌うのが難しくなっている。これは伝統的な民謡としては極めて異例なことである。アン・ゲデス・ギルクリストは1934年の論文で、ロスが聴いたのはルバートのきつい演奏だったために、本来3拍子とするべきところを彼女が誤って4拍子として記譜してしまった可能性を示唆した。ギルクリストはさらに、この曲のリズムを3拍子として編曲し直すことによって本来のアイルランドの民謡に近い特徴を備えた音楽になると主張した。1974年、ヒュー・シールズは「Aislean an Oigfear」(若者の夢)として知られる伝統的な曲のある特定のバージョンがギルクリストによる修正版に極めてよく似ていることに気がついた。シールズが示した「若者の夢」の版は1792年のベルファストのハープ音楽祭でハープ奏者のデニス・ヘンプソンが演奏したものをエドワード・バンティングが採譜し、1796年に発表したものである。ヘンプソンが暮らしたのはロスの家のあるリマヴァディから程近いマギリガンであり、彼はそこで1807年まで生きた。こうしたことから「ロンドンデリーの歌」は「若者の夢」のヴァリアントの一つなのであろうと考えられている。ブライアン・オードリーは2000年に発表した論文の中で、「ロンドンデリーの歌」の高音域の部分はバンティングによって採譜された「若者の夢」のうち、手稿には記されているものの印刷された版では省かれてしまったリフレインに由来するものであることを示してみせた。彼は「若者の夢」の別の二つのヴァリアントにも「ロンドンデリーの歌」の高音域の部分とよく似たリフレインがあることを指摘している。彼はまた、「若者の夢」のヴァリアントとして最初に歌詞をつけて歌われたのが「The Confession of Devorgilla」(デヴォージラの告白)であったことを突き止めた。この歌はエドワード・フィッツシモンズによって1814年に公刊された書物に収録されたものである。彼は「ロンドンデリーの歌」は元々「Oh Shrive Me Father」として知られていた、というロスの同時代人による証言があることを指摘している。このタイトルは「デヴォージラの告白」の最初の一行と一致することから同じ歌のことを指していると考えられる。またこの証言によるとこの歌はロンドンデリー州のみならずドニゴール州でもよく知られていたのだという。オードリーは曲のリズムが三拍子から四拍子に変化した理由については奏者によるルバートや採譜したロスのミスではなく、こうした伝統音楽特有のダイナミズムによるものだろうと推論している。オリジナルの楽譜という概念自体が存在しない伝統音楽の世界では、奏者から奏者へと伝えられていくうちに曲の形が様々に変化していくのは普通のことだからである。「若者の夢」のヴァリアントの中で最初に歌詞をつけて歌われたのは「The Confession of Devorgilla」(デヴォージラの告白)だったと考えられる。この歌は最初の一行を取って「Oh Shrive Me Father」(ああ、神父様、私の懺悔を聞いて下さい)のタイトルでも知られる。ペトリによる出版後に最初にこの曲に歌詞をつけたのはアルフレッド・パーシヴァル・グレイヴズである。1870年代後半に作られた彼の詞は「Would I Were Erin's Apple Blossom o'er You」(私がお前の上で咲くリンゴの花だったなら)とタイトルがつけられた。グレイヴズは後に「…この歌詞は、私が思うには、あまりに教会音楽の型にはまりすぎている。だからこれは決して成功ではなかったと信じている」と語っている。キャサリン・タイナン・ヒンクソンは1894年に「Irish Love Song」(アイルランドの恋の歌)として歌詞をつけた。このメロディーはこの時初めて彼女によって「ロンドンデリーの歌」と呼ばれた。この曲につけられた歌詞として最も有名なのはイギリスの弁護士、フレデリック・エドワード・ウェザリーによる「Danny Boy」(ダニー・ボーイ)である。この歌詞は当初1910年に別の曲のために作られたものだったが、1913年にこの曲に合わせて作り直された。多くの優れた民謡のメロディーと同じく、この曲も賛美歌として使用されている。最も有名な歌詞はウィリアム・ヤング・フラートンによる「I cannot tell」(なぜかはわからないけど)である。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。