リクルート事件(リクルートじけん)とは、1988年(昭和63年)に発覚した日本の贈収賄事件である。リクルートの関連会社であり、未上場の不動産会社、リクルートコスモス社の未公開株が賄賂として譲渡された。贈賄側のリクルート社関係者と、収賄側の政治家や官僚らが逮捕され、政界・官界・マスコミを揺るがす、大スキャンダルとなった。当時、戦後最大の企業犯罪であり、また贈収賄事件とされた。1984年(昭和59年)12月から1985年(昭和60年)4月にかけて、江副浩正リクルート社会長が自社の政治的財界的地位を高める目的で、有力政治家、官僚、通信業界有力者にリクルート社の子会社であるリクルート・コスモス社の未公開株を譲渡した。未公開株の取引相手は、1984年12月20から31日の期間に39人、1985年(昭和60年)2月15日に金融機関26社に、4月25日に37社および1個人にわけられる。1986年(昭和61年)6月に藤波孝生元官房長官ら政財界へのコスモス株譲渡がおこなわれた。1986年(昭和61年)10月30日にリクルート・コスモス株は店頭公開された。譲渡者の売却益は合計約6億円とされている。1988年6月18日に川崎駅西口再開発における便宜供与を目的として川崎市助役へコスモス株が譲渡されたことを朝日新聞が『川崎市助役へ一億円利益供与疑惑』としてスクープした。当時再開発が行われていた明治製糖川崎工場跡地の再開発事業であるかわさきテクノピア地区に関して、本来容積率が500%のところを800%に引き上げて高層建築を可能とさせるのが目的であったと報道された。7月になるとマスコミ各社の後追い報道によって、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮澤喜一副総理・蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄自民党政調会長ら、自民党派閥領袖クラスにもコスモス株が譲渡されていたことが発覚した。90人を超える政治家がこの株の譲渡を受け、森喜朗は約1億円の売却益を得ていた。時の大蔵大臣である宮澤は衆議院税制問題等に関する調査特別委員会で「秘書が自分の名前を利用した」と釈明した。さらに学界関係者では、政府税制調査会特別委員を務めていた公文俊平にも1万株が譲渡されていたことも判明した。7月6日には森田康日本経済新聞社社長も、1984年(昭和59年)12月に受けた未公開株譲渡で8,000万円の売却益を得た事が発覚し社長を辞任した。7月26日に江副会長は「抑うつ症状」で半蔵門病院に入院した。国会で未公開株譲渡問題を追及していた社民連の衆議院議員楢崎弥之助がコスモス株の譲受人名簿を提出するようリクルートに要求。リクルートコスモス社長室長を介しリスク管理の専門家としてリクルートに入社した田中辰巳(現・株式会社リスクヘッジ代表取締役社長)が楢崎の要請は金銭の要求だと強く主張、これを受けリクルート常務がコスモス社社長室長に楢崎との接触を指示。楢崎が翌日に予算委員会の質問を控えた8月4日以降、コスモス社社長室長は手心を加えるよう赤坂の議員宿舎や福岡の自宅まで何度も押しかけ贈賄を提案。楢崎は面識のない彼からの再三にわたる贈賄の提案を自身を陥れる罠ではないかと不審に思い、取材に来ていた親しい記者や前職が裁判官であった同党の江田五月に相談。8月30日、身の潔白を証明するための証拠とすべく議員宿舎でのコスモス社社長室長との会談の模様を記者の協力の下ビデオカメラで隠し撮りを行う。9月5日、楢崎はリクルートの事件関係者を告発する記者会見を開き、同日夜に議員宿舎での会談のビデオ映像が『NNNニュースプラス1』(日本テレビ)で全国放送された。東京地検特捜部は、1989年、政界・文部省・労働省・NTTの4ルートで江副浩正リクルート社元会長(リクルート社創業者)ら贈賄側と藤波孝生元官房長官ら収賄側計12人を起訴、全員の有罪が確定した。だが、政界は自民党では藤波、そして公明党の池田克也議員が在宅起訴されただけで、他は3政治家秘書等4人が略式起訴されたに留まり、中曽根や竹下をはじめ大物政治家は立件されなかった。10月19日に東京地検特捜部はリクルート本社、コスモス社、コスモス社社長室長自宅を家宅捜索した。10月26日に東京地検特捜部は東洋信託銀行証券代行部を家宅捜索しコスモス社の株主名簿等を押収した。10月29日に藤波元官房長官、真藤恒NTT会長、高石邦男前文部事務次官、加藤孝前労働事務次官へのコスモス株譲渡が発覚した。11月10日に東京地検特捜部は捜査開始を宣言し、コスモス社社長室長を贈賄申込罪で起訴した。11月15日に江副は衆議院リクルート問題調査特別委員会にコスモス株譲渡者全リスト提出し11月21日に衆議院リクルート問題調査特別委員会において、江副、高石前文部次官、加藤前労働次官が証人喚問された。12月9日に宮沢蔵相が、12月12日に真藤NTT会長が辞任した。12月27日に竹下首相は内閣改造を実施した。12月30日に長谷川峻法務大臣もリクルートからの献金が発覚し辞任した。1989年(平成元年)1月24日に原田憲経済企画庁長官が、リクルートがパーティー券を購入していたことがわかり辞任した。2月12日におこなわれた参議院福岡補欠選挙において社会党の新人渕上貞雄が自民党候補に圧勝した。2月13日に検察首脳会議開催された。同日に東京地検特捜部は江副前会長、ファーストファイナンス前副社長、NTT元取締役2人をNTT法違反(贈収賄)容疑で逮捕した。2月21日に元労働省課長(ノンキャリアで加藤の側近)を贈収賄容疑で逮捕した。3月6日に真藤前会長をNTT法違反(贈収賄)で逮捕された。3月8日に加藤前次官とリクルート社元社長室長が贈収賄容疑で逮捕された。3月28日に高石前次官が贈収賄容疑で逮捕された。同日に真藤前会長、加藤前次官らが起訴された。4月25日に竹下首相は、首相退陣表明した。4月26日に青木伊平元竹下登在東京秘書が自殺した。5月15日に検察首脳会議開催された。5月22日に東京地検特捜部は、藤波元長官と池田克也元衆議院議員を受託収賄罪で在宅起訴した。5月25日に衆議院予算委員会は、中曽根前首相を証人喚問した。5月29日に東京地検特捜部は、宮沢前蔵相秘書を含む議員秘書4人を、政治資金規正法違反で略式起訴し、同日捜査終結宣言をおこなった。6月3日に竹下内閣は総辞職した。※ 各敬称は事件発覚当時のもの従来の疑獄事件と異なり、未公開株の譲渡対象が広範で職務権限との関連性が薄かったため、検察当局は大物政治家の立件ができなかった。しかし、ニューリーダー及びネオ・ニューリーダーと呼ばれる大物政治家が軒並み関わっており、これら政治家は“リクルート・パージ”と呼ばれる謹慎を余儀なくされた。こうした事情から、従来ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄らは竹下登首相退陣後の総理・総裁に名乗りを上げることができなかった。竹下退陣後は短命の宇野宗佑政権を経て、58歳と比較的若い海部俊樹が総理・総裁となり、結果的に世代交代を促すことになった。また、事件以降「政治改革」が1990年代前半の最も重要な政治テーマとなり、小選挙区比例代表並立制を柱とする選挙制度改革・政党助成金制度・閣僚の資産公開の一親等の親族への拡大等が導入された。この事件がきっかけとなって公職選挙法が改正され、収賄罪で有罪が確定した公職政治家は実刑判決ではなく執行猶予判決が出ても、公職を失職する規定が設けられた。1989年(平成元年)7月の第15回参議院議員通常選挙ではリクルート事件、消費税導入、牛肉・オレンジの農産物自由化が“逆風3点セット”とされ、さらに竹下の後任の宇野宗佑の女性スキャンダルが加わり、自民党は参議院単独過半数割というの結党以来の惨敗を喫した。選挙後、自民党は政局安定の為に公明党や民社党など野党との連携を強いられる(自公民路線)ことになり、その後も参議院で過半数を得るために自社さ連立、自自公連立、自公連立など他党との連立政権を組むことになる。リクルートとリクルートコスモス(現コスモスイニシア)はこの事件でイメージが悪化し、バブル崩壊が追い討ちをかけ経営危機に陥った。1992年に江副浩正はリクルート株をダイエーに譲渡してリクルートの経営から身を引いた。本事件の贈賄の発端となったリクルートかわさきテクノピアビルは売却され、川崎テックセンターと改名した。その後も複数の外資系投資ファンドを転々とすることになった。1988年(昭和63年)8月10日午後7時20分頃に、江副浩正リクルート元会長宅に向けて散弾銃一発が発砲された。赤報隊が「赤い朝日に何度も広告をだして 金をわたした」と犯行声明を出した(赤報隊事件)。ただしリクルート社は他紙に比べ、朝日新聞に多く広告を出していたわけではない。みんなの党代表を務めていた渡辺喜美は、父親の秘書時代に未公開株の名義人として5000株を受け取っている。父の美智雄は「アタシの知らないうちにウチのせがれが5000株もらったばっかりにこっちは総理大臣がパーになっちゃったよ」と自嘲気味に語っている。
出典:wikipedia
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