松浦 詮(まつら あきら、天保11年10月18日(1840年11月11日) - 明治41年(1908年)4月13日)は、肥前国平戸藩第12代(最後の)藩主。松浦家第37代当主、茶人。書家。麝香間祗候、伯爵。松浦秋(第10代藩主・松浦熈の三男)の長男。正室は松浦晧の娘、継室は青山幸哉の娘。子は松浦厚(長男、伯爵家を継ぐ)、松浦靖(次男、分家の子爵家を継ぐ)、稲葉正縄(三男)、佐竹義準(四男)、大隈信常(五男、侯爵)、本多正復(六男、子爵)、松浦廉(七男)、井上勝純(八男、子爵)、長女・宣(前田利嗣正室)、次女(水戸支流松平頼温正室)、三女・都子(伊達宗基正室)、娘(松井松平康義正室)、冏子(伊達武四郎室)。官位は従五位下、肥前守。幼名は朝吉、朝吉郎、源三郎。嘉永2年(1849年)11月24日、伯父で先代藩主の松浦曜の養子となる。安政2年(1855年)8月15日、将軍徳川家定にお目見えする。同年12月16日、従五位下肥前守に叙任する。安政5年9月10日、家督を相続する。慶応4年(1868年)1月8日、上洛し、新政府側に属する。明治2年(1869年)4月、版籍奉還にともなって知藩事に就任する。同年4月、従四位下に昇進する。明治3年4月26日、上局副議長に就任する。明治3年9月、正四位に昇進する。明治4年7月、廃藩置県により、知藩事を免職となる。その後、宮内省御用掛となる。明治17年7月、伯爵となる。明治23年7月、貴族院議員に当選、三期務めた。後に正二位勲二等に叙される。1880年(明治13年)、現在の長崎県立猶興館高等学校の基礎となる猶興書院を設立する。第4代平戸藩主・松浦鎮信(天祥)が興した武家茶道の流派である鎮信流を継承する、石州流鎮信派の家元でもあった。婦女子教育の一環としての茶道を女子学習院、日本女子大学その他の学校で指導した。死後、染井霊園に埋葬された。長崎県平戸市にある松浦史料博物館は、詮の旧邸を改装したものである。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。