アン・ネヴィル(Anne Neville, 1456年6月11日 - 1485年3月16日) は、イングランド王リチャード3世の王妃である。アンは1456年6月11日にウォリック伯リチャード・ネヴィルとアン・ボーシャン(ウォリック女伯)の末娘としてウォリック城で生まれた。彼女はその短い生涯を政治のコマとして使われることになる。彼女は幼年時代の大部分をミドルハム城(父親の不動産の1つ)で過ごし、そしてそこで姉イザベル・ネヴィルと共にヨーク公リチャードの遺児たちと知り合う。父リチャード・ネヴィルの従弟、母アン・ボーシャンの又従弟にあたるこの少年たちが、この姉妹の運命をその後左右することになる。14歳の時、アンは父親によって国王ヘンリー6世の息子の王太子エドワードと婚約させられた。父ウォリック伯は、それまでヨーク派としてエドワード4世の戴冠などにも尽力してきたものの処遇に不満で、この時にはヘンリー6世の王妃マーガレット・オブ・アンジューと同盟して、ランカスター派側に寝返っていた。だが、姉イサベルが王弟クラレンス公ジョージと結婚したことで、マーガレット王妃はこの寝返りの動機を、自分と同盟して王位を王太子エドワードに継承させるのではなく、クラレンス公を担いで次期国王にしようとしているのではないか、と疑い始めた。アンとエドワードが公式に結婚式を挙げた記録はないが、恐らく1470年12月13日にフランスのアンボワーズ城で結婚していたか正式に婚約(この場合は法的には結婚したのと同じ)していた。ヘンリー6世を復位させるため、マーガレットによってイングランドに派遣されていたウォリック伯は、1470年10月にこれに成功したが、その数ヶ月後にバーネットの戦いで敗れて殺された。アンは新郎と義理の母と一緒にイングランドに帰国して初めて、父親が亡くなったことを知った。またさらに、1471年5月4日のテュークスベリーの戦いにおけるエドワードの死で未亡人になった。アンがロンドンで使用人として働いているところを、エドワード4世の弟グロスター公リチャードによって見いだされたという逸話がある。それが本当かどうかはともかく、個人リチャードとしての少年時代からの彼女への想いと、政略的に彼女の財産と称号(その大部分は母アン・ボーシャンの家系から来る)の相続を狙ったのと、その両方があったというのが有り得そうな話である。アン・ネヴィルとグロスター公リチャードの結婚は、1472年7月12日にウェストミンスター寺院で行なわれ、リチャードがイングランド北部の知事に任命されたという事で、慣れ親しんだミドルハム城に新居を構えた。1473年頃、彼女らの唯一の子であるエドワードがミドルハムで生まれた。アンの健康状態は決して思わしくなく、結核と見られる症状に苦しんでいた。1483年4月9日にエドワード4世が死去し、息子エドワード5世が後を継いだ。1483年6月25日、エドワード5世とその弟ヨーク公には王位継承権がないと宣言された(エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚が重婚と見なされたため)。そしてグロスター公がリチャード3世として即位した。アンは王妃となり、息子エドワードはプリンス・オブ・ウェールズに叙せられた。しかしエドワードはシェリフ・ハットンで1484年4月9日に急死した。そのためアンは、自身と夫の甥であるウォリック伯エドワード(クラレンス公ジョージとイザベル・ネヴィルの遺児)を養子にし、リチャードは(恐らく彼女の願いを聞き届けるために)少年を相続人に指名した。リチャードがアンと離婚して姪(エドワード4世の娘)エリザベスと結婚することを計画したという噂は、彼らの息子の死亡後に広まったが、リチャードがアンを毒殺したという噂とともに、その証拠は何も残っていない。アンは1485年3月16日に、恐らく結核のためウェストミンスターで死去し、そこに埋葬された。
出典:wikipedia
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