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オリビエ・グルイヤール

オリビエ・グルイヤール(Olivier Grouillard、1958年9月2日 - )は、フランスの元F1ドライバー。1989年から1992年にかけてF1に出走していた。1981年よりレース活動を開始、多くのドライバーが幼少・少年期頃からレース活動を始めるのに対し、この時点で既に23歳だった。1984年にフランスF3選手権を制した後、国際F3000を経て1989年にF1デビュー。31歳と比較的高齢でのF1デビューとなったが、当時は「フランス期待の星」とされていた。リジェから出走。予選落ちも4度喫するなど、チーム低迷期故下位グリッドに埋もれることも多かったが、ベテランのルネ・アルヌーを予選成績で12勝4敗と圧倒し、時折10位・11位等の好グリッドにも付けていた。決勝でも4度のシングルフィニッシュを記録し、うち第7戦フランスGPでは6位入賞。最終的には、これがF1キャリア唯一の入賞となった。1カー体制となったオゼッラに移籍。前年以上の下位チームから参戦となり、2回の予備予選落ち・5度の予選落ちを喫したが、過半数は決勝まで進出。特に開幕戦アメリカGPでは、8番手グリッドにつけファンや関係者の目をひいた。決勝では、第5戦カナダGP・最終戦オーストラリアGPでの13位が最高となった。1991年も、フォンドメタルに改称した旧オゼッラチームから出走。予選はおろか、予備予選の突破も困難な状況となったが、初めて予備予選を突破した第6戦メキシコGPでは、そのまま予選10位の好グリッドで決勝に進出。第7戦フランスGPでも2戦連続の予選突破を果たすなど、第13戦ポルトガルGP終了時点で、計4度決勝に進出(決勝最高位は20位)していたが、ポルトガルGP後に突然解雇を言い渡され、チームは後任としてガブリエル・タルキーニを加入させた。一方的に放出されたグルイヤールは、チームに見解を求めるも取り合って貰えず、第14戦スペインGPには、それまでタルキーニが在籍していたAGSから参戦(予備予選落ち)。チームはそのレース限りで撤退した為、結局AGSからの参戦は1戦のみとなった。1992年はティレルにシートを確保し、それまでより遥かに上位のチームからの参戦が実現。それまで予備予選通過もままならないマシンで、時折上位グリッドに食い込んでいたことから、「良いマシンに乗せれば速いのでは」と考えていた人物も多かった。しかしチームメイトのアンドレア・デ・チェザリスに対し、予選では2勝14敗。決勝でもチェザリスが8ポイントを稼ぎ、チームをコンストラクターズ選手権6位に導いたのに対し、第5戦サンマリノGPでの8位が最高のノーポイント。リタイヤも終盤の7戦連続を含め計12度記録し、速さ・安定性ともデ・チェザリスの影に隠れる結果となった。開幕戦南アフリカGPで予選12位につけ、雨の第4戦スペインGPで一時5位に浮上する等(最終的にはリタイヤ)、見せ場も皆無ではなかったが、結局この年をもってF1から姿を消すこととなった。F1を去った後は、CART、FIA GT選手権など様々なレースを転々とした。全日本GT選手権にも出場経験があり、1996年のオールスター戦にTOYOTA TEAM SARDのデンソーサードスープラGTで出場し、翌1997年の開幕戦にも同チームから出場し2位を獲得した。しかし第2戦からは谷川達也に交代し、以降は参戦していない。周回遅れの時にも優勝争いやポイント争いをしているドライバーに進路を譲らない事から、上位ドライバーからはよく怒りのポーズを掲げられることがあった。また弱小チームに所属していたため車も性能が悪く、よくエンジンブローを起こし、コース上にオイルをよく撒き散らすシーンが見られ、頻繁に後続車に迷惑を掛けた。日本でのテレビ中継ではこうした行為や様子に対して、古舘伊知郎から「周回遅れの天才ブロッカー」や「ミラーを見ない男」「妖怪油すまし」などと揶揄されていた。予選中に進路の問題でピットにどなりこんできたナイジェル・マンセルの胸ぐらを掴んだ唯一の男でもある。また鈴鹿の大浴場が大好きで、毎回日本GPを楽しみにしていた。当時のF1書籍によると、「F1界のヘビースモーカー」、「かつてのチームメイトであったルネ・アルヌー譲りの荒く強引で一人よがりのドライビング」、「一度速いマシンに乗せてみたいドライバーの1人」、「チームメイトのチェザリスはかつての壊し屋、グルイヤールは現在の壊し屋」などと評価されていた。

出典:wikipedia

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