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三浦義同

三浦 義同(みうら よしあつ)は、戦国時代初期の武将。東相模の小大名。一般的には出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主である。扇谷上杉家から、新井城(三崎城とも)主・三浦時高の養子に入る(先に義同の実父・上杉高救が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に実子・高教が生まれたため不和となり、初め山内上杉家の上杉顕定次いで祖父・大森氏頼を頼ったが、大森氏領内の足柄下郡の総世寺で出家して道寸と号す(一説には義同の実父・高救とその実兄で扇谷上杉家を継承した定正との不和によって、定正に忠誠を誓っていた時高が義同を実家に送り返したとする説もある)。そのため三浦氏の被官は両派に分裂してしまう。明応3年(1494年)9月、義同は大森氏の支援を受けて新井城を攻めて時高および高教を滅ぼし、三浦家当主の座と相模守護代職(後に守護、時期不明)を手に入れた。その後、実子の義意(荒次郎)に家督を譲って新井城に据え、自らは相模中部の岡崎城(現平塚市)に拠った。ただし、この内紛について、近年では義同が養父・時高を攻め滅ぼしたとするような大規模な軍事的内乱の発生を否定して、時高死後の三浦家中の混乱に乗じて義同が三浦氏に復帰し、その家督を奪ったとする考えもある。その後、上杉定正の死後に家督を継いだ朝良 (道寸の従兄弟)と和睦して、台頭してきた安房国の里見氏と同盟を結んだ。同時期の明応4年(1495年)、西相模を抑えていた小田原城の大森藤頼(道寸の母方の叔父にあたる)が、駿河今川氏の軍師・伊勢宗瑞(北条早雲)によって城を奪われるという事件があった(ただし、その年次については明応5年(1496年)以後とする異説あり。また、藤頼が山内上杉家の上杉顕定に降ったため、早雲に攻撃させたという説もある)。早雲は伊豆国と小田原を本拠に、次第に独立して戦国大名化し、関東へ本格的に進出を始める。道寸は藤頼を保護してこれと争うが、早雲は山内上杉家と対抗するために明応7年(1498年)、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案する。話し合いの結果、顕定が守護職であった伊豆を2分する(早雲が伊豆半島を、道寸が伊豆諸島を領有する)事で和解が成立した。その後、早雲と朝良は上杉顕定を立河原の戦いで破ったが、やがて両者は対立するようになり、必然的に扇谷上杉家傘下の三浦氏とも対立することになる。これに対して義同は永正7年(1510年)、小田原城の早雲を攻め、逆に早雲も岡崎城に攻撃を加えた。永正9年(1512年)、ついに早雲は兵を挙げ岡崎城に攻撃を開始した。敵せずと見た道寸は弟・道香の守る住吉城(現逗子市)に退却し、抵抗を続けた。しかし道香も戦死。道寸はさらに新井城へ退却し、扇谷上杉家へ援軍を要請する。しかし、援軍に向かった太田資康(太田道灌の子で道寸の娘婿)も北条勢に迎撃されて討ち死に。道寸・荒次郎父子は三浦半島の新井城に籠城、北条軍がこれを包囲した。三方を海に面する天然の要害であり、三浦水軍の軍事力を背景に持つ新井城の守りは堅固で、三浦父子は北条軍の攻撃を実に3年間に渡って抑えていたが、永正13年(1516年)、ついに落城し、家臣ともども討ち死にした。平安時代以来の豪族三浦家は鎌倉時代に北条氏によって滅ぼされ(宝治合戦)、南北朝期復活した後、再び「北条」(この時期早雲は北条姓を名乗ってはいないが)によって滅ぼされることとなった。なおこの落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって港一面が血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が油壺と名付けられたという。三浦市三崎町に道寸の墓が残る。歌人・東常縁の指導を受けたともいわれている義同の辞世の句は、「討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとの土くれ」。『北条五代記』(『北条盛衰記』本巻二)によれば、最期は十字状に切腹をしたと記されている。

出典:wikipedia

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