長嶋 茂雄(長島 茂雄、ながしま しげお、1936年(昭和11年)2月20日 - )は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手(内野手)・プロ野球監督。読売ジャイアンツ終身名誉監督。日本プロ野球名球会顧問。血液型はB型。闘志溢れるプレイと無類の勝負強さで巨人の4番打者として活躍し続け、多くの国民を熱狂させた。「ON砲」として並び称された王貞治とともに巨人のV9に大きく貢献した。2001年より株式会社よみうり(現:株式会社読売巨人軍)専務取締役、巨人軍終身名誉監督。2013年、国民栄誉賞を受賞した。1936年、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)に生まれた。父は「利(とし)」、母は「ちよ」。兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子である。生家は農家だったが、土地は貸し出し、父は町役場の収入役や助役をしていた。父は在所の世話役だけに短気ではなく、母は意志が強いしっかり者だった。幼少時代、阪神タイガースの藤村富美男のプレーを見て野球選手を志すようになる。藤村への憧れから幼少期は阪神ファンだった。小学4年生から兄の影響で野球を始めたが、当時は終戦間もなくということもあって道具があまり揃えられず、母親にビー玉と堅い布でボールを作ってもらっていたという。また、グラブも母親の手縫いのもので、初めて握ったバットは青竹を割った手製のものであった。小学校6年生の時に兄が所属していた地元の青年野球団のハヤテ・クラブに入団した。兄の下で遊撃手として育てられた。中学は臼井二町組合立中学校に入学した。戦後直後で野球の人気が凄かった頃で、長嶋も野球部に入部した。中学3年間は同じ担任の先生であり、卒業時にはタンスをプレゼントしたほど生徒から慕われていたが、一人の生徒が選手のブロマイドを持ってきた事が発端となって激怒したことがある。以前生徒へのアンケートで将来の希望を書かせたら殆どが「プロ野球選手」と書かれているのを見て、あまりに野球に熱中する姿に「もっと将来を現実的に考えろ」と生徒全員を机の上に正座させた。後年になってその先生は、「長嶋がプロ野球の大スターになるとは思わなかった。子供の夢を頭ごなしに否定してはならない」と反省したという。1951年4月、千葉県立佐倉第一高等学校に進学する。2年生から4番打者を担う。高校時代はほぼ無名だったが、高校最後の大会地区予選で勝ち進み、南関東大会に千葉代表校として出場を果たす。第1回戦、熊谷高校との試合(1953年8月1日大宮球場)で、遊撃手の長嶋は試合前に負傷していた三塁手・鈴木英美に代わって三塁手を務めた。遊撃手で度重なるエラーをしていたことからのコンバートであり、以降、三塁手として定着。同試合には敗れたものの、6回表に福島郁夫投手から高校公式試合で自身唯一の本塁打を放った。このバックスクリーン下の芝生への鋭いライナー性の本塁打 を、当時の新聞は飛距離を350フィート(約107m)と推定した。この特大の本塁打により長嶋は野球関係者から大いに注目を集めることとなった。この本塁打を見ていた1人に朝日新聞記者・久保田高行がいた。久保田からその話をきいた報知新聞記者・田中茂光が、内野手のスカウトにあたっていた富士製鉄室蘭野球部マネージャー・小野秀夫に話をした。小野は長嶋に富士製鉄室蘭への入社を勧めるも、長嶋の父親は進学を希望し、さらに上司から北海道からの新人が内定したとの連絡を受けたため、断念。小野はかわりに、自らの出身校・水戸商高の先輩にあたる砂押邦信が監督を務める立教大学への進学を勧めた。砂押の教育方針に感銘を受けた長嶋の父親は、読売ジャイアンツからのプロ入りのオファーも長嶋に知らせない上で、進学を理由に勝手に断っている。プロ入り志望の長嶋は激怒したという。同年11月下旬、静岡の伊東スタジアムで行われた立教大学野球部推薦入学のセレクションが行われた。フェンス直撃を含む3本の安打を打ち(杉浦忠からも安打)、参加者80人中20人が甲子園出場組という中で推薦順位2位で合格し(1位は本屋敷錦吾、3位は杉浦)、砂押にも認められた。1954年、立教大学経済学部に進学。しかし同年6月に父親が急逝する。長嶋家は一家の大黒柱を失い困窮したが、母親が行商をするなどして生計を支えた。この時期、大学を中退してプロ入りすることも考えたが、母親から反対され断念している。野球部では砂押監督に目をかけられ、ジョー・ディマジオやヨギ・ベラなどのプレイを参考にしたメジャー流の練習や、杉浦の自宅に呼んでの練習など「特別扱いの猛練習」を重ね、正三塁手となる。翌年に先輩の大沢昌芳(大沢啓二)らが砂押排斥運動を起こす。砂押の退任後、長嶋は辻猛の下で同期の杉浦忠投手(南海ホークス)、主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)と共に「立教三羽烏」と呼ばれ、東京六大学野球において、1956年(昭和31年)の春季リーグ戦と1957年(昭和32年)の秋季リーグ戦で首位打者を獲得する活躍を見せた。また1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれる。1957年には六大学リーグの通算新記録となる8本塁打を放った。東京六大学リーグ戦通算96試合に出場し、打率.286(304打数87安打)、8本塁打、39打点、22盗塁。打撃に加えて守備や俊足も野球関係者から高い評価を受け、石井連藏は大学時代の長嶋の守備について「早稲田も頑張って、ずいぶん三遊間にヒット性の打球を打ちましたが、ほとんど長嶋に捕られましたね。彼の守備範囲は普通の人の二倍くらいあったんじゃないでしょうか。しかも守備範囲が荒れていない」と評している。高校時代から既にプロ入りが確実視されており、さまざまな球団が長嶋との接触を図っていた が、本命は南海ホークスとされていた。時を前後して、読売ジャイアンツが長嶋の家族に接触して説き伏せる作戦 に出ていて、母親から「せめて在京の球団に」と懇願されたのが決め手 になり、長嶋は南海から一転、巨人への入団を決め、11月20日に契約した。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」(当初は15を提示されたが拒否)、契約金は当時最高額の1800万円(南海は2000万円を提示していた)、年俸は200万。大沢啓二が語ったところによると、先に南海に入団していた大沢と二人きりで話をし、「どうしても巨人に行きたいんです」と先輩である大沢に頭を下げたという。大沢は、「この事がなかったら、今の長嶋茂雄は無かっただろう」と語っている。しかし、この件もあってその後も大沢には頭が上がらなかったという。鶴岡にはオープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪。この時、鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。杉浦は鶴岡への仁義を尽くすとしてそのまま南海入りしたが、その後も長嶋との友情は絶えることがなかった。オープン戦で7本の本塁打を放つなど、活躍の期待が高まるなかで開幕戦を迎えた。1958年4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。オープン戦の最中、ある解説者が長嶋を褒め称え「金田など打ち崩して当然」といった趣旨の発言をしていたのを偶然耳にした金田は激昂。この日の登板のために特訓を重ね、肩のピークがちょうど来るようにしたという。その後は金田を打つようになり、翌年の開幕戦では本塁打を放っている。長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313、18本塁打。その2日後の4月7日国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日の対大洋ホエールズ戦で権藤正利から初本塁打を放つと、8月6日の対広島戦から川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。9月19日に行なわれた対広島戦(後楽園)では、鵜狩道夫から新人記録となる28号本塁打を放ったが、一塁ベースを踏み忘れて、本塁打を取り消された(記録はピッチャーゴロ)。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人にして「トリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)」の記録が達成されていた。長嶋は翌9月20日の対大阪戦で28号を打ち直し、新人本塁打プロ野球新記録を達成。最終打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。打率は、大阪タイガースの田宮謙次郎と首位打者争いをしたが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的にはリーグ2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。同年は全イニング出場を達成したが、新人での全イニング出場は1956年の佐々木信也(高橋ユニオンズ)に次ぐ史上2人目、セ・リーグでは史上初だった。新人選手の全イニング出場はその後に国鉄の徳武定之が記録したが、以後現在に至るまでこの3人だけである。また、新人の89得点は戸倉勝城の90得点に次ぐ歴代2位で、新人のセ・リーグ記録。そのほかにも新人選手として34二塁打は歴代1位、290塁打は歴代1位、153安打はセ・リーグ記録、92打点はセ・リーグ記録であり、打率・本塁打・盗塁もそれぞれ新人歴代5位以内に入っている。1959年6月25日、後楽園球場で行われた対大阪戦は、昭和天皇が試合を観戦する日本プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は大阪が1点を先制するが、5回に長嶋と5番打者の坂崎一彦が2者連続で本塁打を放って巨人が逆転した。6回には大阪が3点本塁打で試合をひっくり返したが、7回に6番打者・王貞治が2点本塁打を放って同点とした。試合はそのまま進み、4対4で9回裏を迎える展開となる。この際、決着が着かず延長戦になった場合、時間が押している天皇をどうするか、9回を迎えた時に関係者が深刻に悩み始めていた。9回裏、大阪は、先発の小山正明を交代し、2番手の村山実が登板。打席に立った先頭打者の長嶋は、カウント2ストライク2ボールからの5球目・内角高めに食い込んできたシュートを叩いた。打球は左翼スタンドへ伸びて劇的なサヨナラ本塁打となり、同天覧試合は巨人の勝利で幕切れとなった。この試合は、大学野球時代からスーパースターであった長嶋が放ったサヨナラ本塁打ということもあり、そのドラマ性も相まって大きく報道され、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった。それまでは大学野球が一番人気で、金銭を取って野球をするプロ野球は軽んじて見られている面があったが、以降は国内におけるプロ野球の人気が高まっていった。「この試合からプロ野球の隆盛は始まった」ともいわれている。この時の長嶋のサヨナラ本塁打は左翼ポール際の上段に突き刺さるものであり、村山は1998年に死去するまで、このエピソードについて問われるたび「あれはファウルだった」と言い続けていた。なお、同試合では新人の王貞治も本塁打を打っている。これは106回あったON(オーエヌ)アベックホームランの第1号である。2年目となった同年シーズンは、2位・飯田徳治の.296を大きく引き離す打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。翌年の1960年も打率.334で首位打者を獲り、4番打者ながらリーグ2位の31盗塁を記録。1961年には打率.353で2位・近藤和彦の.316に大差をつけて3年連続となる首位打者を獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。打点はリーグ2位の86打点で、打点王の桑田武には8打点及ばなかった。1962年は打率.288でリーグ5位(首位打者は森永勝治の.307)に終わるが、本塁打と打点はそれぞれリーグ2位、盗塁はリーグ3位を記録する。本塁打王と打点王のタイトルは同僚の王貞治が獲得し、同年以降、長嶋と王は巨人の中軸打者としてON砲(オーエヌほう)と称された。これは米メジャーリーグベースボールのニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルとロジャー・マリスにつけられたMM砲になぞらえた愛称である。打順は通常、3番王、4番長嶋であったが、両者のコンディションの良し悪しにより、長嶋が3番、王が4番のように、しばしば入れ替わることもあった。巨人は1965年から1973年まで日本シリーズを9連覇し(V9)、2人はこの間のチームを代表するプレイヤーであった。1963年は打率.341・37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。本塁打は王の40本塁打に次ぐリーグ2位で、王の打点も長嶋に次ぐリーグ2位だった。1964年はリーグ3位タイの31本塁打を残し、打率と打点はリーグ4位を記録。1965年も王の104打点に次ぐリーグ2位の80打点を残すなど活躍した。1966年6月8日、村山はあと4つと迫った通算1500奪三振に際し、「1500奪三振は長嶋さんから獲る」と宣言。一方、長嶋は試合前に「バントしてでも三振はしない」と報道陣に語った。村山は5回までに3つの三振を獲り、6回表に長嶋との対戦となった。長嶋は2ストライク1ボールのカウントから4球目のフォークボールを空振り、三振。2球目と4球目に計2回スイングしたが、どちらもフルスイングで、三振を喫した4球目のスイングではヘルメットが脱げた。長嶋は試合後、「あれは打てなくても仕方ない」と語り、予告を達成したライバルへ敬意を示した。村山はその後の1969年8月1日、通算2000奪三振も長嶋から奪っている。2人は現役時代は口も利かなかったが、引退後には意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。村山の死後、長嶋は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球(ビーンボール)を投げなかった」と述懐している。長嶋はこの1966年シーズンを打率.344で終え、5度目の首位打者を獲得。26本塁打・105打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。翌年の1967年は入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど、不調に終わった。1968年9月18日の阪神とのダブルヘッダーの第2試合。巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番の王に対して、阪神のジーン・バッキーが2球続けて死球寸前のボールを投げてきた。王はマウンドに詰め寄って抗議し、ベンチからも選手、コーチ陣が飛び出し乱闘となる。この乱闘でバッキーと巨人の荒川博打撃コーチが退場となった。そしてバッキーに代わって権藤正利が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。王は担架で運ばれ、試合は20分中断された。乱闘に参加しなかった長嶋は、その直後、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを打った。さらに8回にも2ランを放ち決着をつけた。1968年シーズンは王に次ぐリーグ2位の打率.318、王とデーヴ・ロバーツに次ぐリーグ3位の39本塁打を残し、リーグ最多の125打点を記録して打点王となった。1969年は王とロバーツに次ぐリーグ3位の打率.311、リーグ4位の32本塁打を残し、115打点で打点王を獲得。1970年は打率でリーグ10位と低迷するが、一方でリーグ5位タイの22本塁打を残し、リーグ最多の105打点を記録して3年連続の打点王となった。苦手のコース・球種の無い長嶋は、敬遠を受けることが多かった。初年度の1958年には6試合連続敬遠を記録。1961年には年間敬遠数が35にも達し、8月29日の阪神戦では小山正明に走者無しの場面で敬遠された。1960年の国鉄との開幕戦では、5回二死1塁の場面で、カウント1ストライク2ボールとなったところで捕手の平岩嗣朗が立ちあがり、長嶋を敬遠しようとした。村田元一は捕手の構えた位置に投げたが、長嶋は強引にバットを振りに行き、左翼席中段への本塁打となった。同年7月16日には、投手が敬遠で投げた球を無理やり打ちに行き、二塁打を記録した。また、1962年7月12日の中日戦でも、9回表の2死ニ、三塁の打席で河村保彦の敬遠球を打ちにいき、レフト前に逆転タイムリーを放っている。敬遠策への抗議として、長嶋は打席上で素手で構えたことがある。1968年5月11日の中日戦、二死2塁の場面で山中巽投手は敬遠策を取った。長嶋はこれに対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出た。球場内はどよめいたが、絶対打つことができない長嶋を、山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせた。1971年6月17日の広島戦では、7回二死3塁という場面で、広島の井上善夫、水沼四郎のバッテリーは、敬遠策で長嶋との勝負を回避しようとした。3球続けてボールが投げられたところで長嶋はバットを捨て、素手で構えた。スタンドが騒然とする中、絶対に打撃はありえないにも関わらず4球目も敬遠のボールが投げられて四球となり、一塁に歩くこととなった。1971年5月25日の対ヤクルトスワローズ戦にて、浅野啓司から史上5人目となる通算2000本安打を達成。1708試合での到達は、川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代最速記録である。また、大学卒でプロ入りしたプロ野球選手では初の達成者となった。同年シーズンは2位の衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を残し、6度目の首位打者となった。34本塁打、86打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。1972年はリーグ3位の92打点、リーグ4位の27本塁打を放った一方、打率はベストテンから漏れた。同年からコーチを兼任。翌年の1973年シーズンも成績が下降した。1973年シーズン終了後、監督の川上より「生涯打率3割を切らないうちに引退したほうが良い」と引退を勧告されたが、それを拒否して翌年も現役を続けた。1974年10月12日、中日の優勝が決まり巨人のV10が消えた日、長嶋は現役引退を表明。翌日のスポーツ新聞の一面は長嶋引退の記事一色となり、中日の優勝はまるで脇に追いやられてしまったという。引退会見では「僕はボロボロになれるまでやれて幸せだった。最後まで試合に出ますよ」と残りの中日戦2試合の出場を約束した。また、別のインタビューでは「『あしたはきっと良いことがある』。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません」と自分の現役時代について振り返った。引退会見翌日の10月13日の中日戦ダブルヘッダーが長嶋の引退試合となる予定だったが、降雨で14日に順延となった。この日は中日の優勝パレードと同日であり、監督の与那嶺要以下、星野仙一、高木守道ら主力はパレードへの参加を強制され、中日側は力の衰えた選手や一軍半の選手が出場することとなった。与那嶺、星野、高木らは電話で長嶋に非礼を詫びている。それに対して長嶋は「こっちのことより、(中日にとって1954年以来の)20年ぶりの優勝を思い切り祝ってくださいよ」と明るく答えたという。引退試合前のミーティングで長嶋はチームメイトに「思い残すことはない。みんなもいつか引退の日が来るが、それまでベストを尽くして悔いのないプレーをしてほしい」と挨拶。その後、この年史上初の2年連続三冠王を決めていた王にそっと「すまんねぇ、今日は引き立て役になってもらうよ」とささやいた。それに対して王は笑って「今日はパッと明るく、アベックホーマーで行きましょう」と答えている。引退試合の第1試合は3番三塁で出場。第2打席に村上義則から現役最後の本塁打を放った。この試合では王も本塁打を放ち、王の言葉どおり最後(106本目)のONアベック本塁打を記録した。第1試合終了時、長嶋は外野フェンスに沿って泣きながらファンに挨拶した。当初は第2試合終了後場内を一周する予定で、全く予定外の行動だった。長嶋はこの時の行動について「今日ほどスタンドの拍手が胸に響いたことはなかった。第1試合が終わったら知らないうちに外野に足が向いていたんだ」と語っている。続く、第2試合は、4番三塁で出場。長嶋はこの試合の第3打席で現役最後の安打をセンター前に放った。最終打席は8回裏1死1、3塁で佐藤政夫から、ショートへの併殺打に終わった。試合は10対0で巨人が勝利。第2試合終了時、長嶋は名残惜しむように一人一人と握手し、最後は王と腰に手を寄せあいながらベンチに引き揚げた。引退セレモニーのスピーチでは「我が巨人軍は永久に不滅です!」という言葉を残した。この言葉は、「永遠に不滅です」と誤って引用される場合も多く見られる。なお、当時小学生の長男・長嶋一茂はこの引退試合を一切観ていない。当初長嶋は一茂に始球式担当を持ちかけたが、「恥ずかしい」と拒否し、一茂は試合時間に歯科医にかかっていた。長嶋の引退は読売新聞の1974年十大ニュースの4位になるなど、スポーツに留まらない社会的事件であった。同年11月21日、選手時代につけていた背番号3は読売ジャイアンツの永久欠番と認定された。同年12月21日、長嶋の引退を記念したドキュメントLP(2枚組)『ミスターG 栄光の背番号3 長島茂雄・その球跡』がワーナー・パイオニアから発売され、オリコンLPチャートで最高16位を記録した。後に長嶋はこの引退の理由について当時の時点では「まだ二~三年は選手としてやれる」と思っていたが、自身の成績の低下や、チームの連覇が途絶えてしまった事、「お金も名誉もいらないから選手としてやらせてほしい」という理由で断っていた巨人軍の監督のオファーが断れなくなった事を挙げている。1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。川上が築き上げた確率野球(自らの失策を減らし、相手の失策を誘い、そこにつけこんで勝利するスタイル)を捨て、投、打の力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチームを再編。そのためヘッドコーチに関根潤三、投手コーチに宮田征典、守備・走塁コーチ補佐に黒江透修、バッテリーコーチに淡河弘などをそれぞれ招聘し、川上は牧野茂、藤田元司に残るように要請したが、長嶋は川上時代のコーチ陣はほぼ一掃された。新背番号は「90」。新背番号を考えていた長嶋は当時小学生の息子の一茂に相談した際に「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9」と言われ、それをきっかけに「90」にした(当時背番号9は吉田孝司が付けていたため)。長嶋は現役最終年時点で、引退即監督就任は考えておらず、現役を2・3年は続行したい思い(フットワークの衰えは認めていたが、それでもまだ現役をやれると思っていたという)があった。また、引退後2・3年はバックネット裏から野球を研究したり、コーチを経験してからの監督就任を考えていたが、チーム事情から引退即監督就任の運びとなった(『読売新聞』1999年11月27日付)。球団としては戦後初の非日系の外国人選手 であるデーブ・ジョンソンを獲得し、自らの後継三塁手とした。なお、ジョンソンはメジャーリーグ情報を長嶋に伝えるパイプとしての役割もあり、度々長嶋家にメジャーの試合を録画したものを持ち寄り、長嶋一家とともに鑑賞していた。この場に立ち会った一茂はメジャーに憧れ、野球(リトルリーグ)や、独学でウエイトトレーニングを始めた。1975年のシーズンは、球団創設以来初の最下位に終わった。当時巨人の選手だった柴田勲は「長嶋さんが引退して森昌彦さん、黒江透修さんも引退し戦力が落ちたのもあるが、コーチ陣を一新したり、一体どういう野球をしたいのかがわからなかった」,「コーチ陣と上手くいっているように見えなかった」と述べている。この時、長嶋は自身の野球人生は「波乱万丈」だと思ったという(『読売新聞』1999年11月27日付)。そのため1975年のオフには「グリーン・ベースボール」「チャレンジ・ベースボール」を標榜し、勝つ野球へのシフトチェンジを行った。日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲を高橋一三、富田勝との交換で獲得。さらにトレードでライオンズから先発も抑えもできる加藤初も獲得した(このとき東尾修もトレード候補だったが、「球の速い方」の加藤を選択したとの関係者の証言あり)。外野手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。コーチ陣も前年から一軍コーチで留任したのは黒江のみで打撃コーチには2軍監督だった国松彰、投手コーチには杉下茂が就任した。球団はコーチ陣のテコ入れのため、極秘で南海の選手兼任監督野村克也に接触、巨人の当時球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五が交渉し、選手兼任ヘッドコーチというオファーを打診。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた本人は快諾した。ところが肝心の長嶋がクビを縦に振らなかった為、“巨人・野村克也”は幻に終わり、野村は選手兼任監督で南海に残留した。翌1976年には最下位から一転、リーグ優勝を果たした。日本シリーズは阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れた。1977年シーズン中にヤクルトから倉田誠との交換で当時巨人キラーと言われていた浅野啓司を獲得するなどし、「3年目こそ、長嶋の真価が問われる」という声の中、リーグ優勝を果たす(V2)。日本シリーズは1勝4敗で2年連続で阪急に敗れた。1977年オフには大洋ホエールズからジョン・シピンを獲得し、正二塁手とする。1978年はシーズン当初から低迷が続き、8月後半、一旦は首位に立つものの力尽き、結局、広岡達朗率いるヤクルトが優勝した。同年オフに江川事件が起きており、江川卓との交換トレードで、エースの小林繁が阪神に移籍。1979年は5位に終わった。長嶋はV9時代を知らない若手軍団を「シンデレラ・ボーイ」と呼び、伊東スタジアムの秋季キャンプに集結させた(伊東キャンプ)。江川卓、西本聖、角三男、藤城和明、鹿取義隆、赤嶺賢勇、山倉和博、笠間雄二、中畑清、淡口憲治、篠塚利夫、松本匡史、平田薫、山本功児、中司得三、河埜和正、中井康之、二宮至の18人が参加。このキャンプで若手の結束力が高まる。キャンプ中に行われた練習試合で若手が全く活躍せず、ベテランだけが活躍したこともあり、当初は1976年オフの再来とも言われたが、後に若手は藤田元司時代の主力選手となる。また、このオフには張本がロッテオリオンズに放出され、ニューヨーク・ヤンキースでプレーしたロイ・ホワイトを獲得した。ホワイトは張本に代わり、1980年のシーズン中には40歳を迎える王とともに打線の中軸を担う人材として期待された。スタッフでは、長嶋の理解者であり、伊東キャンプでも臨時コーチを務めた青田昇をヘッドコーチに招請するなど、チーム再建を企図した。しかし青田は週刊誌のインタビューで、暴力団と自身の交際を認めるような発言をしたため問題となった(青田舌禍事件)。この責任を取り青田はシーズン前に辞任する。野球マスコミやファンの間では、栄光のV9時代を懐かしみ、前監督の川上哲治の待望論が徐々に出るようになっていった。実際に川上派と呼ばれる巨人OBが長嶋のチーム作りに干渉(前述の1976年オフの柴田のトレード失敗など)する ようになり、また、1976年オフに山ごもりのパートナーでもあり、自らが監督になる際にコーチに抜擢した淡河弘を原辰徳のドラフト騒動の時に失い(原の家に長嶋の密書を持っていったという理由で解任された)、1979年オフには前述の騒動で青田昇を失ったのを筆頭に、1975年から1979年までの間、フロントが11人のコーチ(福田昌久、須藤豊、関根、宮田、淡河、中村稔、瀧安治、黒江、国松、町田行彦、鈴木章介)を解任にした 。黒江は78年に退任しているが長嶋から「片腕としてよくやってくれたけど、球団の考えなんだ。申し訳ないが辞めてくれ」と言われ。黒江は涙ながらに長嶋に「片腕の黒江を切るなら私も辞めますと、なぜ言ってくれなかったのですかと訴えました」と言ったと言う 。長嶋批判が渦巻く中、1980年8月に当の川上が、青田昇、牧野茂、藤田元司、国松彰らを集めて週刊文春の座談会を開き、取材担当の瀧安治にオフレコにする条件として長嶋の後継監督について色々と話し合った。ところが数日後にその記事が掲載され、長嶋降ろしの波は避けられないものとなった。最終的に、球団のオーナーである正力亨ではなく、読売新聞社社長の務臺光雄が、1980年のシーズン終了前に長嶋の監督解任を決断した。球団がAクラスを確保すれば続投と公言していたものが一転した形で、「陰謀」と騒がれることになった。川上派の批判に晒され続けた長嶋は、川上(とその一派)による数年かけた裏工作の結果とみなし、長嶋の川上への悪感情は決定的なものになった。川上がOB会会長になった後はOB会への欠席を続け、1990年に、OB会から今年出席しないと除籍という勧告を受けて、しぶしぶ出席したのをきっかけに川上と「和解」。長嶋は辞任という名の「事実上の解任」後、正力からフロントへの入閣を進められたが、フロントは性に合わないと拒否して退団届を提出し、個人事務所「オフィスエヌ」を設立し、浪人時代を始める。後継監督には藤田元司が就いたが、藤田は前述の座談会に参加しており、また同座談会で川上が後継監督として名前を挙げていたこともあり、「長嶋派」のマスコミからバッシングの対象とされ、1981年に日本一になった際にもそれは続いた。浪人時代は野球のみならずスポーツ全般の伝道者的役割、スポーツ外交官的役割を演じた。特に浪人1年目、1981年は、2月キューバ文化視察、同月(設立前の)韓国野球委員会での講演、同年6月中国棒塁協会での野球指導、同年10月ワールドシリーズ観戦などと世界中を駆け巡った。この時期からスポーツ番組のみならずバラエティ番組にも出演。独特のキャラクターが受け、面白いオジサンのイメージが定着。翌1982年1月に報知新聞社の客員評論家に就任。この間、他球団から相次いで監督就任の打診があったが、巨人への思いからそれらを全て断った(『読売新聞』1999年11月27日付)。長嶋によると大洋、日本ハム、ヤクルトから監督就任の要請があったという。中でも大洋が長嶋の監督就任に最も積極的に動いていたが、最終的には「もう少し勉強していたい」という理由で断った。西武からも監督要請を受けるが断り、3番目の候補だった広岡達朗が監督に就任した。一茂が在籍していたヤクルトから1989年オフに関根潤三の後任監督として監督要請を受けるが、家族の反対もあり、野村克也が就任した。1990年オフオリックス・ブレーブスから監督の要請を受けるが断り神戸出身で長嶋の大学・巨人の後輩土井正三を推薦し土井が監督に就任した。1990年の川上哲治との和解、1991年の務臺光雄の死去、渡邉恒雄の読売新聞社社長就任など、長嶋の監督再就任への道筋が徐々に出来上がり、1992年オフに報知新聞社客員を辞任し、1992年10月12日に第13代監督として復帰会見を行う。新背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)。同年11月のドラフト会議において、星稜高等学校の松井秀喜を引き当てた。長嶋の監督復帰は翌年に発足を控えたJリーグへの対策という意味もあった。監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」(後にチャージ&チャージ)を標榜。浪人時代に感銘を受けたキューバ野球の実践を目指した。現役大リーガーだったジェシー・バーフィールドを入団させ、また一茂をヤクルトから金銭トレードで獲得し、親子で巨人の一員となる。復帰初年度の1993年は3位に終わった。打線は低迷しチーム打率は12球団最下位だった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。翌1994年には中日と同率で最終戦を迎え、リーグ優勝達成。試合前から、長嶋はこの試合を「国民的行事」とコメントしており、後に「10・8」と語り継がれる名試合となった。さらには、巨人の監督として初めて西武ライオンズに勝利して長嶋の指揮では初めて日本一となり、正力松太郎賞を受賞。1995年はヤクルトからFAで広沢克己と自由契約になったジャック・ハウエル、広島からもFAで川口和久、メジャーリーグ・ミネソタ・ツインズからシェーン・マックを4億円で獲得するなど30億補強とも言われた大型補強を敢行したが広沢、松井ら大型打線が落合を除き全体的に調子が上がらず、桑田真澄の故障による長期離脱などチーム状態が上向かずヤクルトの後塵を終始拝し続け3位に終わる。1996年には広島に最大11.5ゲーム差をつけられが、リーグ優勝を果たし、前年に果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる(1999年は「メークミラクル」、2001年は「ミラクルアゲイン」をそれぞれキャッチコピーとして使用したが、いずれもV逸に終わっている)。しかし日本シリーズではオリックスに1勝4敗で敗退し、同年オフ、一茂に自ら戦力外通告を行い、現役を引退させる。1997年は西武からFAで清原和博、ロッテからエリック・ヒルマン、近鉄から交換トレードで石井浩郎を獲得するなど大型補強を行ったが補強戦力が不振や故障に泣き、またエース斎藤雅樹の不振もあり4位に終わり、この頃から若手の伸び悩みで長嶋への批判も多くなる。1998年は大物ルーキー高橋由伸の加入で野手の若返りが進み、開幕5連勝を飾るなど順調なスタートを切ったが、6月以降斎藤や桑田などベテラン投手陣に疲れが見え徐々に失速。7月に横浜に7点差を逆転された試合が契機になり以後は3位でシーズンを終えた。開幕初の4番に座った松井がプロ初タイトルでホームラン・打点の二冠を獲得した。その間も長嶋は監督に留まり続けるが、シーズンオフになる度に後継監督候補として、堀内恒夫や森祇晶、江川卓などのOBの名が取り沙汰された。その中、後任とさせるために1998年より原辰徳を一軍コーチとして入閣させる。一方、原はコーチ時代について、「長嶋さんにはいろいろ助言もしたが、最終的に全て長嶋さんが決断をしていた。無責任のようだけど、3年間自分は座っているだけだった」と述べたことがある。1998年、7月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)において判定を巡りバルビーノ・ガルベスが主審の橘高淳を目掛けてボールを投げ付ける事件が発生した。長嶋は著書『野球は人生そのものだ』の中で、監督としての責任から、球団社長の渡邉恒雄に辞表を提出したが慰留され、カード終了の次の日に頭を丸めた。1999年は大物ルーキー上原浩治が20勝を挙げ、同じく新人の二岡智宏も遊撃に定着、2年目の高橋は3割30本をマークするなど若手が活躍したが、桑田や斎藤、ガルベスのベテラン投手陣に衰えが目立ち、シーズン終盤にこの年好調だった高橋が故障で離脱。高橋や松井ではなく大不振の清原を4番に置き続けた長嶋の采配も疑問視され2位に終わり優勝を逃した。2000年には、FAで獲得した江藤智に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号3に変更。当初、この背番号3を長嶋は、ユニフォームの上に上着を着て、マスコミ・ファンには隠していた。世間の背番号3の長嶋が見たいという気運が高まった頃にユニフォームを公開し、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。同年、長嶋率いる巨人は日本シリーズで、王貞治が監督の福岡ダイエーホークスに勝利し日本シリーズ優勝達成。翌2001年、この年を以って監督業から勇退。9年間の監督生活にピリオドを打った。長嶋の勇退およびヘッドコーチ職に就いていた原を後任の監督とする発表がなされた記者会見での当時日本テレビアナウンサーの吉田填一郎からの「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問に「野球というスポーツは人生そのものです」と答えた。2002年2月に宮崎市名誉市民、同年3月に佐倉市名誉市民顕彰。7月には立教学院栄誉賞(第1号)を受賞する。12月、アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。2003年11月に行われたアジア選手権で中国、台湾、韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月4日、脳梗塞で倒れ、入院。一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。長嶋や周囲はアテネオリンピックでの復帰を考えていたが、短期間での病状回復は不可能と判断され、一茂が「(アテネには)行かせられない」と記者会見を行った ため、肩書きはそのままだったが長嶋が現地アテネで指揮を執ることはできなかった。長嶋の代理としてヘッドコーチの中畑清がチームの指揮を執ったが、結果は3位に終わった。2005年7月3日、長嶋は東京ドームの巨人対広島戦を観戦し、病気で倒れてから約1年4ヶ月ぶりに公の場に姿を現した。同観戦には同年1月1日から「球団代表特別補佐」となった一茂が同行した。この時は事実上読売グループの独占取材となり、長嶋の肉声は伝えられなかったが、同年11月4日に皇居で行われた天皇、皇后両陛下との懇談会に出席した際には、軽い会話に応じる長嶋の姿が広く伝えられた。2005年11月3日、平成17年度文化功労者(スポーツ振興)に決定される。2006年には少年の野球教室に飛び入りで参加し、リハビリの成果もあって少しずつ公の活動を拡大した。また、アテネオリンピックの代表選手達を中心に2005年から始められた「長嶋茂雄ドリームプロジェクト」 にも特別ゲストとしての参加が可能となり、子ども達への野球指導を行った。2007年7月、日本経済新聞の人気企画「私の履歴書」に登場した。2009年9月に放送された『NHKスペシャル』「ONの時代」(全2回)に出演し、いくらかの後遺症は残っているものの、自らの言葉でインタビューに応じた。テレビでの長時間インタビューは発病後初で、長嶋は「周辺からは『テレビには出ないほうが良い』という意見もあった」と明かしながら、自宅周辺での歩行訓練や筋力トレーニングなどのリハビリを公開した。2010年には『週刊文春』誌上で阿川佐和子と対談を行い、発病時の様子を振り返っている。2012年11月、キューバより、友好勲章を授与される。2013年4月1日午後、日本政府の内閣官房長官の菅義偉は記者会見で、国民栄誉賞授与について、松井秀喜と同時に受賞する方向で検討していることを明かし、同月16日に正式決定。同年5月5日の東京ドームの巨人対広島戦の試合前に、松井秀喜の引退セレモニーと合わせて、国民栄誉賞授与式が行われ、8年ぶりに「国民栄誉賞を頂きましてありがとうございます」と、公でスピーチ を行い、試合前の始球式では長嶋が片手打ちで打席に入り、投手に松井、捕手は巨人の監督の原辰徳、球審は首相の安倍晋三が務めた。2013年4月、千葉県県民栄誉賞の授与が決定し、5月31日、授賞式が行われた。2013年6月、佐倉市民栄誉賞の授与が決定し、7月12日に佐倉市岩名運動公園第一野球場にて表彰式が執り行われた。また佐倉市岩名運動公園第一野球場の名称が同日より長嶋茂雄記念岩名球場に改められた。2014年8月、東京都名誉都民の授与が決定し、10月1日、顕彰式が行われた。2014年12月、日本プロ野球名球会の理事を退任し、顧問に就任。日本のプロ野球でも名誉監督の役職や称号があり、2001年9月28日には読売ジャイアンツから長嶋茂雄の監督退任と終身名誉監督の就任が発表されている。2010年3月16日には東北楽天ゴールデンイーグルスが野村克也の監督退任と名誉監督就任を発表しているが、野村は2012年一杯で名誉監督を退任した。現在、プロ野球界で名誉監督の称号を贈られたのは全球団で長嶋茂雄と野村克也のみである。金田正一、村山実、権藤博、足立光宏、江夏豊、板東英二、稲尾和久など複数の投手、また捕手としてオールスターゲームや日本シリーズで対戦した野村克也が長嶋を「計算できないバッター」と評している。権藤や足立は「長嶋さんは打てそうもないコースでもバットを投げ出したり瞬間的に腕を畳んだりしてヒットにするバッターだった」と評しており、「王は打てるボールを確実に打つ。ポテンシャルが高いのでほとんどのストライクゾーンに来るボールは王にとって『打てるボール』になってしまうのだが、打てないボールまで何とか打つというタイプではなかった」と王と対比しながら語っている。江夏は「打席ごとに何故打たれたのか、何故打ち取れたのかが全く分からない」と長嶋について語っており、野村は長嶋を「来た球を打てる天才」と称している。大学時代、監督の砂押邦信と共にジョー・ディマジオ、ヨギ・ベラ、ミッキー・マントル、ロジャー・マリス、フランク・ロビンソンらの連続写真を研究し打撃フォーム、バットの構え方、スタンス、腰の回転などを徹底的に身に付けた。極端とも言えるアウトステップが特徴だった。川上哲治は「並みの打者なら1割もおぼつかないフォーム。長嶋は天性の能力でバットのヘッドを最後まで残していたため、あんなフォームでもいろいろなボールに対応できた」と評しており、少年野球教室などでは「あの打ち方は長嶋だからできるもの。真似してはいけない」と諭していた。この点は金田正一も触れており、「シゲはどんなに体勢が崩れていても、バットのヘッドが最後の最後まで残っていたので、最後の瞬間まで油断できなかった。凄い迫力だった」と語っている。広島カープの「王シフト」を生みだすきっかけとなった東洋工業のコンピューターは、当然長嶋についても同様のデータを分析したが、長嶋については全く特徴的な傾向が見られず、「長嶋シフト」を作ることはできなかったという。岡崎満義は、「王シフトを作らせ、それをものともせずホームランを打ち続けた王は本当に偉大。しかし同時に長嶋シフトを作らせなかった長嶋も凄い」と評している。長嶋の空振りは、脱げたヘルメットが三塁ベンチの方へ飛んで行ったと言われる程で、豪快な空振りでファンを沸かせた。三振した際の画を考え、わざと小さめで楕円形のヘルメットをアメリカから取り寄せて、ヘルメットの飛んでいく角度など空振りの練習をしていたこともあったという。そのような豪快な空振りやデビュー時の4打席4三振などから三振のイメージが強いが、実際にはスラッガーとしては三振は少ない方だった。三振数の打数に対する割合.090は、通算400本塁打以上を放った15人の中では張本勲、土井正博に次いで低い。また、400本塁打以上を記録した打者の中で三振率が1割を切っているのはこの3人だけである。首位打者を獲得したシーズンはいずれも安打数でもリーグトップだった。シーズン最多安打10回はプロ野球記録(6年連続を含むが、これもプロ野球記録)。また、6回の首位打者のうち最も2位との差が小さかったのは1963年・古葉毅との2厘差で、それ以外の5回は全て1分5厘以上の差をつけての文句なしの首位打者だった。6回の首位打者のうち2回(1959年、1971年)は長嶋がセ・リーグ唯一の3割打者である。長嶋が全盛期だった時代はリーグ平均打率が.230など極端な打低投高の環境下であり、さらに1974年の現役引退後には打者に有利なラビットボールが普及し、翌1975年以降はセ・リーグの打高化が一気に進んだ。そのため、傑出値をはかるセイバーメトリクス(RC関連、XR関連、長打率傑出度やOPS傑出度など)においては、ほとんどの通算記録指標で長嶋はプロ野球歴代3位以内に位置する。打率傑出度(RBA)でも右打者歴代1位であり、その時代で傑出した打者だったことが分かる。また、当時行われていた日米野球戦では、他の多くの選手が通算打率1割台から2割前後の中、長嶋は69試合で打率.295(200打数59安打)と高いアベレージを記録しており、通算で場外本塁打を含む6本塁打や27打点・26四死球・5盗塁などを残した。王がホームランバッターとして覚醒して以降は本塁打王のタイトルを獲得することはなかったが、特に打率・打点で二冠王だった1963年は王とわずか3本差で本塁打王のタイトルを逃し、打率・本塁打で二冠王だった1961年も桑田武に8打点差で打点王のタイトルを奪われて三冠王を逃した。一方で1968年から1970年の3年間は、王が首位打者・本塁打王・打点2位で打点王を長嶋が獲得し、3年連続で王の三冠王を阻んでもいる。打率・本塁打・打点の部門において、「二冠王、残りの1部門がリーグ2位」のシーズンを1958年・1961年・1963年の通算3回残したが、これは王の5回と中西太の4回に次いで歴代3位の記録である。新人年の1958年はあと1本三塁打を打っていれば田宮謙次郎(9本)と並ぶリーグ最多となり、「単打(83)、二塁打(34)、三塁打、本塁打(29)のすべてでリーグ最多」という大記録を達成するところだった。現在も日本ではこの記録の達成者は1人もいない。また、現役時代は多くのタイトルを総なめにしたが、サイクル安打は一度も達成できなかった。1試合4安打以上を通算26試合、5安打を1試合記録しているが、うち26試合では三塁打を打てなかった。唯一三塁打を打った試合では、二塁打1本、三塁打2本、本塁打1本で単打がなく、サイクル安打を逃している。通算205敬遠、打率ベストテン入り通算13回などは右打者歴代1位であり、通算2471安打は金本知憲に抜かれるまで長らく大卒選手の歴代最多記録であった。セ・リーグ一筋で活躍し、通算において、二塁打・三塁打・長打・打点・犠飛数全ての右打者のセ・リーグ記録を保持している。また、通算安打を実働年数で割った平均安打数は145本に達し、同時代に活躍した張本勲134本、榎本喜八128本、福本豊127本、王貞治126本、野村克也111本、衣笠祥雄110本、門田博光106本など他の一流打者の平均本数と比べても突出しており、現役時代は右打者ながらハイペースで安打を積み重ねた。通算打率.305は7000打数以上の選手中では歴代4位、8000打数以上の選手中では歴代2位(右打者では歴代1位)である。大舞台でよく打ち、勝負強さが印象付けられている。日本シリーズでは通算68試合に出場して出塁率.402・長打率.694・OPS1.096の成績を残し、シリーズの初戦では通算12試合で打率.429(49打数21安打4本塁打)を記録した。日本シリーズMVP通算4回獲得は史上最多である。2本塁打を放った天覧試合については、チームメートの広岡達朗は「天覧試合は長嶋のためにあったようなもの」と語っており、「彼がああいう舞台で力をきっちり出せるのは、実力もさることながら物の考え方(大舞台に物怖じせず、むしろ楽しむ)が素晴らしいものを持っていたのが大きい」と評している。1966年11月6日の日米野球戦・天覧試合でも場外本塁打を放っており、皇室観戦試合では通算10試合で打率.514(35打数18安打7本塁打)を記録した。捕手による「ささやき戦術」が全く効かなかった選手でもあり、野村克也は幾度となく、長嶋には通用しなかったと発言している。また、辻恭彦には「おいダンプ(辻の愛称)、うるせえ! 野球をやれ野球を!」と怒鳴り、放屁で攻撃したことがある。バッターボックスでの集中力の強さのあまり、打席に入った後の空振りでその辻の頭にバットが当たってしまい失神、それに気づくも「何やってんだ!」と思わず一喝してしまったというエピソードも残されている。バットは現役生活17年間のほとんどで、ルイビルスラッガー(ルイスビル)などのアメリカ製を使用していたという(三井物産経由の入手)。普通の三塁手よりも1.5メートルほど後ろに守り、特に横(一塁側に向かうライン)の守備範囲が広く、遊撃手や投手の守備範囲の打球も横取りするようにキャッチすることが多かった。長嶋は「あの範囲の打球は三塁手の最大の見せ場」と語っており、守備については打撃よりも「ファンと一体になれる守備のほうが好きだった」と述べている。また、ゴロには15種類あると語り、捕るのが難しいゴロを簡単に捕球するのがプロだと述べている一方、「逆に盛り上げようと思って、何でもないゴロを難しそうに捕ったりしたこともありましたけどね(笑)」と振り返っている。一方でフライについては1種類しかないと感じ、遊撃手の黒江透修に任せていた。長嶋は「だってフライは遊びや芸を入れることができないから、捕っても面白くないんだもの(笑)」と語っている。このように華のある守備で知られ、スローイングの後に右手をヒラヒラさせる独特の動作を行っていたが、これは歌舞伎の動きから取ったものであるという。何でもないゴロをトンネルする珍プレーがテレビで取り上げられるなど、失策の場面がよく放送され、守備の名手として語られるより華やかさや面白さが多く話題に上る。しかし実際は数値上では守備能力が非常に高い選手であり、通算守備率.965は角富士夫の.975に次いで三塁手セ・リーグ歴代2位(1000試合以上対象。角は通算1350試合・3296守備機会)に位置し、1500試合以上対象や4200守備機会以上を対象にする場合は三塁手プロ野球歴代1位となる。デビューから晩年まで試合に出場し続け、7353守備機会をはじめ、試合数・刺殺数・補殺数・併殺数など、失策数を除くあらゆる通算守備記録で他の三塁手を圧倒している(全て三塁手のプロ野球歴代1位)。シーズンにおいても、守備指標のRRF(レンジファクター)でデビュー以来7年連続を含めて三塁手リーグトップを通算8回(1958年 - 1964年、1967年)記録しており、当時の他の三塁手と比べると極めて突出した数値を残した。1968年からプラスの数値が少なくなり、1970年以降は1973年以外の4シーズンでマイナスを記録しており、34歳以降から守備に衰えが見られる。リーグトップを7年連続・通算8回は共に三塁手歴代1位の成績であり、プラスシーズンの合計値も三塁手歴代1位である。数値からは、全盛期は打球をアウトにする能力が非常に高く、守備範囲の広い三塁手であったことが窺える。シーズン214守備機会連続無失策という三塁手のプロ野球記録も保持している(連続シーズンでは2012年に宮本慎也が更新)。立教大学時代、砂押邦信監督が導入・研究したMLBのステップやグラブ捌きなど当時の最先端技術を取り入れ、練習していた。若手の頃は僅かながら遊撃手や外野手としても出場している。若い頃は大変な俊足と思い切りの良い走塁が持ち味のひとつだった。ランニング本塁打も打ったことがあり、1958年の日本シリーズでも記録しており、1960年7月17日の大洋戦では敬遠球を打ちにいってランニング本塁打を記録した。また、1960年8月21日の国鉄戦では、一死一・二塁で王が打ち上げたレフトフライで、一塁ランナーだった長嶋は勢いよくスタートを切り、二塁に戻ろうとした二塁ランナーだった藤尾茂を追い抜いてアウトとなっている。新人時代に4番打者も務めながら37盗塁を記録するなど、若い頃は盗塁が多かった。しかし長嶋本人は「走ることは大好き」と言いつつも、「一塁から二塁への走塁はあまり興味なかった。一塁から三塁への距離感が大好きだった」と語っている。長嶋の三塁打は通算74本(歴代8位、右打者では広瀬叔功に次いで歴代2位)と多く、1960年5月には4試合連続三塁打の日本記録も作った。長嶋は「観客に一番アピールして喜んでもらえるのは三塁打であるという理由から、自分のプロとしての売り物は三塁打だと考えていた」と述べている。新人時代の項で述べた「ホームラン取消事件」は、ショート頭上すれすれをラインドライブするような当たりだったので「よし、三塁打だ!」と思って全力疾走したために起きたという。30歳前後になるまでは、単打性の当たりでも隙があれば積極的な走塁で果敢に次の塁を狙い、三塁打が多い一方で二塁打も多かった(通算418本は歴代7位、右打者では山内一弘に次いで歴代2位)。リーグ最多二塁打通算3回というセ・リーグタイ記録も持っている。ホームスチールを6回試みて2回成功させている。その他、一塁走者として、後続打者の外野フライにより二塁を回った地点から帰塁する際、二塁を通過しながら二塁を空過して一塁に帰るという三角ベース事件を、1960年・1964年・1968年の3回起こしている。その一方で敵チームの三角ベース事件も3回発見している。愛称は「チョーさん」、「ミスタープロ野球」、「ミスタージャイアンツ」、「ミスター」、「ハリケーン」、「燃える男」、「皇室男」など多数あり。自身の性格について長嶋は「セッカチですが、物事を放り出すことはありません。投げ出さずに一歩ずつコツコツ物事を続けるのは、習い性になっています。毎日少しでも物事を積み上げ、最後まであきらめない」と述べている。座右の銘は「快打洗心」。飛田穂洲の「一球入魂、快打洗心」から拝借したもので、現役時代のサインにはこの言葉を添えることが多かったが、監督時代のサインには快打を取り「洗心」あるいは洗まで取り「心」という言葉を添えていた。立教大学監督の砂押邦信から教えられたMLB流の「個性の重視」、「お客さんに評価される自分の野球のスタイルを自分でつくること」という考え方に影響を受ける。野球人生を通じて、周りの人を喜ばせ、自分をどう表現するかを常に考え続けた。常人には計り知れない独特の感覚を持ち、それにまつわる逸話が数多く持っている。それらの話には信憑性が定かではないものも含まれる。ジョー・ディマジオのファンであり彼のプレイスタイル、プロ意識から大いに影響を受けた。好きな歴史上の人物は二宮尊徳(金次郎)。長嶋家の庭には二宮金次郎の石像がある。長嶋によれば「豪雨被害のニュースを新聞で読み、テレビで見て、溜息交じりで庭に目をやると金次郎が目に入る。その姿に奮い立つのです」という。会話における語法も独特のもので、現役時代には既に一つのセンテンスの中で主語と述語が何度も繰り返され話の切れ目がないような話し方であり、取材記者の間では「長嶋話法」とも呼ばれていた。監督時代には「うーん」「ええ」「いわゆる」「ひとつの」などを多用し、間を空けるようになる。1981年に大友康平に語ったところによると「ついうっかり発言していろんな人を傷つけちゃいけない、誤解を与えちゃいけないと、言葉を選んでいたらあんな風な話し方になった」。日本語と英語が不自然に混じった、あるいは英語にしなくてもいい部分まで英語にしてしまう「ミスターイングリッシュ」も有名(例:「失敗は成功のマザー」、鯖のことを「さかなへんにブルー」)。一説によれば、結婚後に家庭内で英語で会話していたからこのような話し方になったという。1961年10月3日付朝日新聞の「わたしが記者なら」というインタビュー記事に以下のような一節があり、物議を醸した。他人の名前の記憶が不安定(仲の良い人でも忘れることがある一方、一度会っただけの人は覚えていたりする)だったり、諺の誤用や二重表現などをよくしたりと初聞では何を言ってるのかわからない事が多々ある。ただし、会話自体よりボディ・ランゲージでコミュニケーションを取るタイプの人間でもある。また、その独特の感覚は選手時代
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