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山鹿流

山鹿流(やまがりゅう)は、山鹿素行によって著された兵学(兵法)の流派。林羅山に入門して漢学教育を受けた山鹿素行は、仏教、道教の思想にも通じ、神道和学の故実を踏まえて甲州流軍学の小幡景憲、北条流の祖・北条氏長の門下として軍学の修得をした山鹿流は、単に戦法学というより、太平の時代に士道学としての広い構想の下に講受された。事理一体を基盤とし、道源・学問・力行の三要を力説し、「修教要録」「治教要録」に則って、修身、治国の大道を強調、武経兵法、兵法戦法論を研究しながら、実学・教学に重点を置いた士道教育がなされた。素行の兵学直門は140名くらい。直系、血縁者で山鹿流を受け継いだのは、平戸藩の山鹿男系と、津軽藩の山鹿女系である。肥前国平戸藩では山鹿素行の一族の山鹿平馬が家老に、素行の次男である藤助が兵法師範に採用されて山鹿流が伝来、平戸松浦藩学として栄える。素行の兵学を講受した諸大名には、津軽信政 、津軽信寿 、戸田忠真 、松浦鎮信 、松浦長祐 、松浦織部昌 、大村守純 、稲垣重昭 、小笠原長祐 、小笠原長重 、本多忠真、浅野長矩らがいる。素行の2人の娘は三次・浅野家の臣から津軽信政に仕した山鹿高恒と、のちに津軽藩家老になる門人、津軽政広に嫁した。この系統から幕末に兵法学者として活躍した山鹿素水が出た。素水は諸国を流浪して、大垣藩士・小原鉄心、豊後岡藩士・鵜飼枝美など各藩の有力者に山鹿流を伝授した。九鬼隆都(丹波綾部藩主)に見いだされ、異例の知遇を得ている。筑後国柳河藩でも山鹿流兵法師範がおり、文久年間に柳河藩士卒が山鹿流に編成され、筑後国柳河藩でも山鹿流兵法師範がおり、文久年間に柳河藩士卒が山鹿流に編成された。前田藩では、甲州流兵学者・関屋政春(有沢永貞の伯父)が素行に山鹿流を学んだことで広がった。山鹿素行から直々に受けた赤穂藩からの山鹿流伝系は、赤穂藩断絶後も続いた。その伝系は、山鹿素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった窪田清音が、安政2年(1855年)幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に就任したことで、山鹿流は幕府兵学の主軸となった。幕府の御用学として山鹿流が採用されたのは、山鹿素水、九鬼隆都、窪田清音の関係によるものとされる。 山鹿素行→大石良重→菅谷政利→太田利貞→岡野禎淑→清水時庸→黒野義方→窪田清音→若山勿堂→勝海舟山鹿流を軸に甲州流軍学、越後流、長沼流を兼修した窪田清音の兵学門人は三千人。近代兵器が出現後も、清音は山鹿流の伝統的な武士道徳重視の講義をしたが、石岡久夫の研究によると、清音が著した五十部の兵書のうち晩年の「練兵新書」、「練兵布策」、「教戦略記」などは練兵主義を加え、山鹿流を幕末の情勢に対応させようとした大きな傾向があるという。この窪田兵学門人の英才である若山勿堂の山鹿流門下から、勝海舟、板垣退助、土方久元、佐々木高行、谷干城ら幕末、明治に活躍した逸材が輩出された。同じ幕末に長州藩では、吉田松陰が相続した吉田家が代々、藩学である山鹿流師範家となっており、吉田松陰は藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法偏三の講義を行っている。松陰は叔父にあたる玉木文之進から山鹿流を授している。江戸に出た松陰は肥後の山鹿流兵学者・宮部鼎蔵と交流を深めた。吉田松陰と宮部鼎蔵は1851年(嘉永4年)、山鹿素水に学んでいる。明治維新で活躍した高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、山田顕義ら長州藩の松陰門下生は、藩校・明倫館、松下村塾で山鹿流を習得している。玉木文之進から山鹿流を講授された長州藩出身の 乃木希典は、明治天皇に殉死する前の大正元年(1912年)9月10日、学習院長として養育にあたっていた裕仁親王時代の昭和天皇、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)、光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行が記した山鹿流の神髄である尊王思想の歴史書である「中朝事実」を自ら筆写して献呈した。山鹿流といえば、歌舞伎・人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』のなかで、赤穂四十七士の吉良邸討ち入りを指揮する大星由良助が合図に叩いた「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には山鹿流の陣太鼓というものは存在せず、物語の中の創作。

出典:wikipedia

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