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普天堡の戦い

普天堡の戦い(ふてんほのたたかい、ポチョンボのたたかい、朝:、)は、1937年6月4日、満州に展開していた東北抗日聯軍として活動し日満国境を越えてきた金日成こと金成柱率いる一隊(のちの満州派)、及び同じく東北抗日聯軍に籍を置き朝鮮甲山郡を本拠地に朝鮮内で活動していた朴金喆の率いる一隊(のちの甲山派)が普天堡(ポチョンボ)で行った赤色テロ事件である。1937年6月4日午後10時頃、満州国境沿いに有る朝鮮の咸鏡南道(現在は両江道)甲山郡普天面保田里(旧名、普天堡)を、東北抗日聯軍第1路軍第2軍第6師(金日成が率いたとされる部隊)を名乗る共産主義者武装集団が襲撃した。第6師90名の兵匪は6隊に分かれ普天堡近くまで侵入した後、朝鮮領内で組織されていた呼応工作員80名と合流。16隊に分かれて午後10時に面(村)駐在所の襲撃を開始した。別働隊は試験場、営林署、森林保護区、消防署を襲撃した。駐在所には7名の警察官が配置されていたが、襲撃当夜の在勤者は5名(うち2名が朝鮮人)であった。銃撃のため警察官は全員が退避し死亡者は出なかった。しかし、巡査の幼子1名が母親と共に避難中、銃弾に当たり死亡した。第6師は駐在所から銃器と弾薬を奪った。次に、第6師は面事務所、郵便局の建物、書類等に放火。普通学校にも延焼した。続けて商店及び住宅も襲撃し、地元民から現金4000円(現在の物価に換算すると約6000万円前後)及び物資を奪った。被害に遭った地元民の殆どが朝鮮人であったが、料理店経営者であった日本人1名が居室で殺害された。この後、襲撃隊は4種類のビラを撒き撤退した。襲撃による総被害額は当時1万6000円(現在の物価に換算すると約2億4000万円前後)とされている。翌6月5日、日本の警察が追撃を開始したところ、金日成部隊は引き返し交戦に至り、警官隊は死者7名・負傷者14名を出した。これらの事件により金日成の名が朝鮮領内で報道され、日本側官憲もこの事件を重要視したことから(当初は2000円、のちに2万円の賞金が賭けられた。現在の物価に換算すると約3億円前後)、金日成の名は知られるようになった。当時、朝鮮の東岸に繋がる鉄道、恵山線(けいざんせん)が開通間近で、恵山鎮(けいざんちん)はその終点となる都市であった。普天堡は面事務所(村役場)を中心に日本人26戸50名、中国人2戸10名、朝鮮人280戸1323名、合計1383名が居住している小さな面(村)であったが、近くにこの重要都市・恵山鎮があることから、襲撃は日本側官憲に重要視された。襲撃の後、恐怖のため住民達は次々とこの地を離れ普天堡周辺は過疎化した。1937年11月18日の京城新聞の記事には普天堡を襲撃した金日成(金成柱36歳)が満州国軍討伐隊に射殺されたとの記事がある。また満州国軍の機関誌である月刊『鉄心』にも「金日成匪賊討伐詳報」としてこの時の詳細な記録がある。普天堡事件で面の住民らによって目撃された金日成は40歳前後と報告されている。また、普天堡襲撃の共犯者とされる朴金喆・朴達(のちの朝鮮労働党甲山派領袖と重鎮)らは後に逮捕された際、金日成は普天堡襲撃当時36歳だ、と供述した。これらの矛盾や聴き取り調査から、普天堡を襲撃した金日成は、後に朝鮮民主主義人民共和国主席となる金日成(当時25歳)と同一人物ではないと疑う説が唱えられた(李命英、朴甲東など)。その後、東北抗日聯軍を指導する中国共産党側の人物による証言・その他の中国語史料が公開され、普天堡を襲撃した金日成とソ連領内に退避(一時帰国)した金日成(金成柱)は同一ではないとされている。しかし、抗日運動家に関する記述に齟齬があるのは珍しいことではないこと、情報撹乱目的またはゲリラ相互で情報が遮断されている為に逮捕されたゲリラが誤った供述をすることも珍しくないこと、最終的に取調べと裁判が事件の全容を明らかにする過程で朝鮮総督府が他の情報・供述を退けて「本名金成柱当二十九年」と確定していることなどから、少なくとも普天堡襲撃時点での金日成と後の金日成は同一人物で間違いないと和田春樹(徐大粛、金日成#パルチザンの英雄および金日成#注釈参照)などは主張している。

出典:wikipedia

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