甘 英 (かん えい、ウェード・ジャイルズ記法:Kan Ying、生没年不詳)は、字は崇蘭、後漢の人。ローマに派遣された中国の軍事大使であり、紀元97年、西域都護であった班超の命によって、当時大秦と呼ばれていたローマとの国交を開く任務を託された。彼は、7万人の規模を持った班超の遠征軍の一員であり、甘英は軍と共に、パルティア王国の西の国境まで到達した。甘英はおそらくローマには到達しなかったと考えられるが、少なくとも歴史に記録されている限りでは、古代において、中国人としてもっとも西方へと旅した人物である。後漢(紀元25年-紀元220年)の歴史を記した『後漢書:西域伝·安息伝』の記述に従えば:(九年,班超遣掾甘英窮臨西海而還。[八]皆前世所不至,山經所未詳,莫不備其風土,傳其珍怪焉。於是遠國蒙奇、兜勒皆來歸服,遣使貢獻。。)『後漢書』の別の部分には、また以下の記述がある:(和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度。)甘英はローマ(中国では当時「大秦」と呼ばれていた)についての報告を残したが、それは間接的な資料に依拠せざるを得ない。彼はローマの位置を、「海」の西側に比定している:彼はまた、ネルウァによる養子制度での帝位継承について述べており(ネルウァはトラヤヌスを養子として、彼に帝位を譲った)、ローマ人の身体外見やその産物などについても述べている:(土多金銀奇寶,有夜光璧、明月珠、駭□犀、[一]珊瑚、虎魄、琉璃、琅玕、朱丹、青碧。刺金縷繡,織成金縷罽、雜色綾。作黃金塗、火浣布。又有細布,或言水羊毳,野蠶繭所作也。合會諸香,煎其汁以為蘇合。)最終的に甘英は、シルクロードの西の端にある対極としてのローマを正しく把握した:(凡外國諸珍異皆出焉)後漢書の西域伝・安息伝はこう記載する。:「和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度,而安息西界船人謂英曰:「海水廣大,往來者逢善風三月乃得度,若遇□風,亦有二歲者,故入海人皆繼三歲糧。海中善使人思土戀慕,數有死亡者。」英聞之乃止。」(和帝の永元9年西域都護の班超は甘英を大秦への使者とし、條支(位置については諸説ある。)を経て、大海(同上の注;)に到着して渡ろうとした。安息国の西の国境の船乗りは甘英に言った。「海水は広大で、往来する者は、もし良い風に会えば三ヶ月で着く。もし遅い風が吹けば2年間かかる。ゆえに海に入る者は3年分の食料を用意する。また海中には人に故郷を恋慕させるものがいて、数多くが死ぬ。」甘英はこれを聞き断念した。)当時安息国は漢とローマの中継地点に当たり、漢朝とローマの絹と絹織物交易から、利益を得ていた。もし漢がローマと直接交易路を結べば、その利益が損なわれてしまうと考えていたのかもしれない。そこで安息人は甘英にシリアの陸路を示さず、航海の困難と恐怖を煽った。この一言により、甘英は航海を断念し、西海から帰還しローマに辿りつけなかった。「海中善使人思土戀慕」をギリシア神話のセイレーンではないかという学者がいる。「晋書・四夷伝・西戎伝附大秦国伝」にはやや異なる記述がある。:漢時都護班超遣甘英使其國。入海,船人曰:「海中有思慕之物,往者莫不悲懷。若漢使不戀父母妻子者可入。」英不能渡。(漢の時代に西域都護の班超が甘英をその国に使者として派遣した。海に入る時に、船乗りは言った。「海の中に恋しく思わせるものが居る。行くもので悲しまない者はない。もし漢の使者の中に父母や妻子が恋しくないものが居れば入れる。」甘英は渡れなかった。)甘英は内陸出身であり、「途經大海,海水咸苦不可食。」(《晉書》)と海水が飲めないことまで報告している。彼は航海について知識が乏しく、これが安息人の誇張した航海の危険を鵜呑みにし、安息で足を止めた理由かもしれない。
出典:wikipedia
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