円形校舎(えんけいこうしゃ)とは、ロタンダ(円形建築物)となっている学校の校舎である。1950年代に多数建設され、大阪府・兵庫県・奈良県を中心に北海道から鹿児島県まで広く分布している。「最も経済的に造る」ことを信念としていた建築家・坂本鹿名夫によって考案された。円形にすることで廊下や壁が節約でき、建設コストを安く押さえることができたほか、狭い土地を有効活用できることから、メディアに取り上げられて注目を浴び(1954年〈昭和29年〉の私立山崎学園富士見中・高等学校の竣工時には、日本はおろか外国の報道機関までもがヘリコプターで上空から取材をしたという。)、一気にブームが起こったといわれている。ほかにも、どの方向からも風が入るため風通しが良く、日当たりも良いことや、扇形の教室は教師と生徒の距離感が近く、教師からは全体が見渡せるといった利点もあった。直径30メートルほどの正円の平面を持ち、外周と内周に柱を均等に並べるラーメン構造である。中心部は動線と設備のコアとなっており、扇形に仕切られた諸室は円の中心側に黒板が設置された。外壁一面のガラス窓を通じて背後から採光するという、学校建築において過去に例がない形式である。最上階を講堂・体育館にする形式のものも作られた。1947年(昭和22年)、教育基本法とそれにもとづく学校教育法の施行により、中学校が新設され小・中義務教育の6・3・3・4制が確立する。しかし、戦災復興は1950年代に入っても罹災校舎の半分に及ばず、制度的前身を持たない中学校では施設不足が深刻化していた。各地で応急の木造校舎が建設されたが、粗悪な作りで台風の度に被害を出し、教育にも支障を来していた。こうした状況を受けて文部省(当時)は教育施設部を新設し、建築学会に学校建築の標準づくりを依頼した。1950年(昭和25年)に建築学会は、7×9メートルの教室を幅3メートルの廊下南面に並べた一文字型平面の「鉄筋コンクリート造校舎の建築工事」をまとめる。この定型は東京都建築局によって建築モデル校に指定された西戸山小学校などの設計に採用された。こうした一連の標準設計策定作業の輪の中に、坂本鹿名夫の姿もあった。大成建設の設計技師だった坂本は1947年(昭和22年)頃、上司の代理として文部省の委員会に出席するようになった。やがて臨時委員の資格で正規メンバーとなり、基本設計・断面詳細などの設計に関わる。作業が西戸山小学校の実施設計まで来たとき、廊下側間仕切りの検討をめぐって委員が私案を持ち寄ることになった。ここで坂本は、正円の校舎2棟を矩形平面の雨天体操場で連結した案を出すが、奇抜に過ぎるとして委員会で顧みられることはなかった。1952年(昭和27年)、私立金城高等学校(現・遊学館高等学校)で西戸山小学校と同じ円形校舎2棟を雨天体操場で繋ぐ案を提案するが、実現したのは円形校舎1棟のみだった。そのため、坂本自身は次作の私立山崎学園富士見中・高等学校(1954年〈昭和29年〉)を実質的な第1作としている。1954年(昭和29年)、坂本は独立し建築綜合計画研究所を設立する。独立後、坂本は多数の円形建築を設計した。1959年(昭和34年)にまとめた作品集『円形建築』で主要作品としてあげられているものに限っても、1954年に2件だったものが、1955年(昭和30年)には14件(うち校舎10)、1956年(昭和31年)には13件(うち校舎11件)、1957年(昭和32年)には26件(うち校舎15件)、1958年(昭和33年)には18件(うち校舎15)と増えている。これらのうちの少なからずが公立学校だった。坂本自身は自ら手がけた円形校舎は、1959年の半ばで100以上と書いている。建て増しが容易にできないことや、扇形の教室での机の大量配置が難しいことなどの問題から、ベビーブームの影響による生徒数の爆発的な増加に対応できず、1960年代後半になるとほとんど新築されなくなった。少子化の影響や老朽化によって解体が続いており、現在は約30棟程度しか残っていない。昭和に建てられた主な円形建築には以下がある(坂本が設計したもの以外も含む)。 - (未編集) - (未編集) - (未編集) - (未編集) - (未編集) - (未編集) - (未編集) - (未編集) - (未編集)
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。