リディア・シモン(Lidia Simon, 1973年7月3日 - )は、 ルーマニア出身の女子陸上競技選手(主にマラソン)である。マラソンデビューは早く、1990年17歳で初マラソンを経験している。だがこの時の記録は2時間58分18秒。国際的なランナーには遠く及ばない記録だった。シモンが最初に世界大会に登場したのは1995年の世界陸上イェーテボリ大会だった。この大会の女子マラソンで10位になった。1996年7月に行われた、アトランタ五輪女子マラソンでは、30km地点まで優勝したファツマ・ロバを追う2位集団についていた。しかし30kmを過ぎた直後で銅メダル獲得の有森裕子、銀メダル獲得のワレンティナ・エゴロワのスパートについていけずにペースダウン、結果6位入賞にとどまった。1997年8月に行われた世界陸上アテネ大会では、レース中盤嘔吐症状により優勝争いから脱落するが、後半追い上げて3位入賞、銅メダル獲得。1999年8月に行われた世界陸上セビリア大会でも、レース中盲腸炎による腹痛の影響で優勝を逃すが、再び3位に入って銅メダルを獲得した。2000年1月に行われた、シドニー五輪女子マラソン代表選考レースであった大阪国際女子マラソンでは、弘山晴美とデッドヒートを繰り広げながらも僅差で当時大会新記録の2時間22分54秒の自己ベストタイムで優勝し、大阪で大会史上初の3連覇を達成した(大会最多優勝回数はカトリン・ドーレの4回)。同年9月に行われた、シドニー五輪女子マラソン本番では、中間点前の18km付近でスパートした高橋尚子についていき、その後高橋との激闘を演じたが、レース後半の34km付近で高橋に突き放される。40km地点で高橋とは28秒の差が付き、シモンの優勝は絶望的と思われたが、そこからシモンは驚異的な追い上げを見せる。しかし時既に遅し、僅か8秒差で高橋が最初にゴールテープを切って金メダル、シモンは惜しくも2位で銀メダル獲得となった。2001年8月に行われた世界陸上エドモントン大会では、終盤まで銀メダル獲得の土佐礼子とデッドヒートとなったが、ゴール直前の陸上競技場へ入る手前、土佐をラストスパートで突き放し、土佐とは5秒の僅差で優勝。念願であった世界大会で初の金メダルを獲得、ゴール後のシモンは嬉しさの余り地面に突っ伏したまま号泣していた。2004年8月に行われたアテネ五輪女子マラソンでは、出産後の準備不足と体調が万全で無かった為、途中棄権となった。その後のレースでも不本意な成績が続いていたが、2007年8月に行われた世界陸上大阪大会では久々の好走、レース終盤まで優勝を争って5位入賞と健闘した。2008年8月の北京五輪女子マラソンでは、35Km過ぎまで2位集団に加わった。その後ペースダウンするも粘りの走りで、結果8位入賞を果たした(優勝は同国代表のコンスタンティナ・トメスク)。さらに5大会連続五輪代表となる、2012年8月のロンドン五輪女子マラソンにも出場した(結果は45位)。現在でも1児のママさんランナーとして、大変息の長い活躍を続けている。オリンピックでは1996年・6位、2000年・2位、2008年・8位と計3回入賞、また世界陸上選手権では1997年・3位、1999年・3位、2001年・1位、2007年・5位と計4回入賞している。五輪・世界陸上と合わせて合計入賞7回は、女子マラソン選手としては史上最多記録である。また、世界陸上選手権での女子マラソンメダル獲得数3個(1997年・銅、1999年・銅、2001年・金)は、マヌエラ・マシャド(1993年・銀、1995年・金、1997年・銀)、キャサリン・ヌデレバ(2003年・金、2005年・銀、2007年・金)と並び、史上最多タイ記録である。日本のマラソン大会には、大阪国際女子マラソンへ過去に10回出場のほか、名古屋国際女子マラソン・長野オリンピック記念 長野マラソンにも出走。なお、2011年の第1回大阪マラソンでは女子選手として初代覇者に輝き、翌2012年の第2回大阪マラソンでも優勝し大会2連覇を果たす。また、TBS系の期首期末特番『オールスター感謝祭』のメイン企画「赤坂5丁目ミニマラソン」にかつてゲストランナーとして数回登場し、自身のトレーナーである夫のリビュー・シモン(通称・旦那シモン)と共に、夫婦揃って出走していた。さらに2009年3月に行われた名古屋国際女子マラソンでは、引退ランの高橋尚子にレース後花束を贈呈する役をこなすなど、日本国内でもシモンの知名度と人気の高さがうかがえる。
出典:wikipedia
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