雲鷹(うんよう)は、日本海軍の航空母艦。大鷹型航空母艦の2番艦。雲鷹は日本郵船所有の新田丸級客船八幡丸(やわたまる)を改装し、航空母艦としたもの。八幡丸の建造費用は政府の優秀船舶建造助成施設の適用を受けており、有事には徴用・改装されることがあらかじめ決められていた。雲鷹の前身である八幡丸は昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で、またドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルスト、、)に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで、日本郵船が建造した豪華客船「新田丸」級三姉妹船の第3船であった。新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャル“NYK”に因んでそれぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた。また3隻とも三菱長崎造船所で建造され、新田丸、八幡丸、春日丸の順番で建造された。新田丸、八幡丸は短期間ながら客船として活動した。春日丸は客船として就役することなく最初から空母として竣工したため、本型は最初に完成した春日丸をネームシップとして『春日丸級特設航空母艦』と呼称されている。第二船八幡丸は新田丸から4か月遅れた1940年(昭和15年)7月31日に竣工。シアトル航路で一航海ののちサンフランシスコ航路に就航した。1941年(昭和16年)6月15日、呉海軍工廠で空母への改造工事に着手した。予想される日米の艦隊決戦に際して、大鷹型航空母艦(春日丸級航空母艦)は艦隊用補助空母としての役割を期待されていた。しかし本型は小型で速度も遅く、さらに日本海軍が終戦まで空母用カタパルトを実用化できなかった事は、運用に大きな制約をあたえた。空母用カタパルトを装備した連合国軍の軽空母や護衛空母と比較して、本型の航空機運用能力は非常に見劣りするものとなり、本格的な海戦に投入される事は一度もなかった。1941年(昭和16年)11月25日、特設航空母艦八幡丸として呉鎮守府所管となった。日本海軍は同日附で、水上機母艦(甲標的母艦)日進艤装員長駒澤克己大佐を八幡丸艤装員長に任命した。12月10日、八幡丸艤装員長は駒澤(日進艤装員長)から湊慶譲 大佐に交代する。1942年(昭和17年)5月10日、井上良雄中佐(5月5日まで駆逐艦萩風艦長)は八幡丸副長に任命される。5月31日に改造完成。空母に改造され春日丸級特設航空母艦となった八幡丸の最初の任務は、1942年(昭和17年)7月の航空機輸送任務だった。7月29日、八幡丸は艦戦16・艦爆16を搭載、第7駆逐隊(潮、漣)に護衛されて横須賀を出発、サイパンを経由して8月9日にウルシー環礁へ到着、航空隊を進出させると8月13日に呉へ戻った。航海中の8月31日、特設航空母艦八幡丸と春日丸はそれぞれ軍艦'雲鷹(ウンヨウ)'および大鷹(タイヨウ)と改名される。2隻は同日附で正規の航空母艦となった。大鷹は佐世保鎮守府籍、雲鷹は呉鎮守府籍となる。湊大佐も雲鷹艦長になった。艦容に変化はなく、引き続き内地と前線を往復して航空機輸送任務に従事した。9月4日、雲鷹は駆逐艦雪風と共に横須賀を出発、トラック泊地へ向かった。9月9日朝、駆逐艦秋風はトラック泊地北方に潜望鏡を発見し対潜警戒警報を発令、連合艦隊は戦艦大和、陸奥、練習巡洋艦香取以下トラック在泊艦艇に転錨を命じた。哨戒機と駆逐艦は爆雷を投下。戦艦・機動部隊・重巡部隊の各隊各艦はただちに停泊地を変更し、宇垣纏連合艦隊参謀長が『最も難物』と心配していた工作艦明石も横抱きした損傷艦3隻を自力航行させたのち移動した。午後3時、トラック泊地北水道を通過して到着した雲鷹も警戒機を発進させたが敵潜を発見できず、結局秋風がトラック泊地へ接近中の雲鷹のマストを潜望鏡と誤認したものであったという。9月18日、呉に帰投した。南東方面での戦闘が激しくなるにつれて航空機の消耗は甚大となり、大鷹型空母は航空機輸送任務に奔走することになった。南太平洋海戦の前には、第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)に航空機を補充している。だが、航空機輸送任務中の航空母艦は、暗号解読により待ち伏せている米潜水艦に幾度も襲撃された。11月10日、パラオよりフィリピンへの輸送任務に従事していた雲鷹は暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦シーウルフ("USS Seawolf, SS-197")に狙われた。雲鷹を翔鶴型航空母艦と誤認したシーウルフも追跡をおこなうが12日に機関故障をおこして襲撃を断念、各方面に情報を発信して真珠湾へ帰投した。同海域にはシーウルフの他に潜水艦シール ("USS Seal, SS-183")も行動していたが、雲鷹を襲うことはなかった。 1943年(昭和18年)1月28日、雲鷹艦長は湊大佐から相徳一郎大佐に交代。4月14日、相徳大佐は最上型重巡洋艦1番艦最上艦長へ転任、後任の雲鷹艦長は関郁乎大佐となる。5月8日、大和型戦艦1番艦大和、第五戦隊(妙高、羽黒)、空母2隻(雲鷹、冲鷹)、駆逐艦4隻(潮、夕暮、長波、五月雨)はトラック発。5月13日、横須賀着。大和、妙高、羽黒は呉と佐世保へ帰投した。6月10日、横須賀を出港した空母飛鷹と駆逐艦2隻(有明、夕暮)は米潜水艦トリガー ("USS Trigger, SS-237") から襲撃され、被雷して航行不能となった飛鷹は軽巡五十鈴に曳航されて横須賀へ帰投した。6月16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、戦艦2隻(金剛、榛名)、巡洋艦3隻(熊野、鈴谷、五十鈴)、空母3隻(龍鳳、雲鷹、冲鷹)、駆逐艦部隊(第27駆逐隊《時雨、有明、夕暮》、第7駆逐隊《潮、漣、曙》、第16駆逐隊《雪風》、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第24駆逐隊《涼風》、秋月型《新月》、夕雲型《清波》は横須賀を出発。6月20日、暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦スピアーフィッシュ ("USS Spearfish, SS-190")が空母(個艦不明)に対し魚雷4本を発射するが、速力を見誤っていたので命中しなかった。日本艦隊は6月21日にトラックへ到着した。雲鷹、冲鷹は7月2日に横須賀へ戻った。7月上旬、雲鷹はマーシャル諸島への航空機輸送任務に従事。第二〇一海軍航空隊の零式艦上戦闘機45機と、第五五二海軍航空隊の九九式艦上爆撃機27機、計82機を搭載。7月6日、特設巡洋艦愛国丸と共に横須賀を出発した。7月10日、米潜水艦ハリバット("USS Halibut, SS-232")が愛国丸に魚雷6本を発射、1本命中により愛国丸が小破した。翌日、雲鷹隊はトラック泊地に到着。19日、雲鷹は龍鳳と共にトラック泊地を出発、24日横須賀に到着した。 7月31日、雲鷹は第二水雷戦隊司令官高間完少将の指揮下に入り、3隻(軽巡長良、雲鷹、駆逐艦曙)で横須賀を出発。8月1日、呉からトラックへむかう大和型戦艦2番艦「武蔵」(連合艦隊旗艦、古賀峯一司令長官座乗)、第五戦隊(妙高、羽黒)、駆逐艦3隻(陽炎、白露、初風)と合流する。8月4日、暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦スティールヘッド ("USS Steelhead, SS-280")に発見された。翌日未明、スティールヘッドが雲鷹に対し魚雷6本、戦艦に対し魚雷4本を発射したものの早爆に終わった。トラック泊地の九七式艦上攻撃機(対潜哨戒機、レーダー未搭載)は夜間のため基地で休息しており、敵潜の雷撃を防ぐことができなかった。8月5日、艦隊はトラックに到着。本艦は一旦内地へ戻る。10月上旬、マーシャル諸島やギルバート諸島へ配備される日本陸軍の輸送作戦(丁三号輸送部隊)が実施されることになり、雲鷹は輸送部隊指揮官木村進第十一水雷戦隊司令官の指揮下に入った。13-14日、丁三号輸送部隊(扶桑型戦艦山城、航空戦艦伊勢、空母2隻《隼鷹、雲鷹》、天龍型軽巡龍田、第32駆逐隊《早波、涼波、藤波、玉波》)は内海西部を出発。19日にトラック泊地到着。本艦は帰路も第十一水雷戦隊に同行することになった。10月31日、戦艦2隻(伊勢、山城)、空母2隻(隼鷹、雲鷹)、巡洋艦2隻(利根、龍田)、駆逐艦4隻(海風、涼風、谷風、曙)と共にトラック泊地を出発した。ところが11月5日午前5時、暗号解読により豊後水道近海で日本艦隊を待ち伏せていた米潜水艦ハリバットが雲鷹以下輸送艦隊を襲撃した。午前5時35分、ハリバットの魚雷1本を艦尾に被雷した隼鷹は直進不能となり、利根に曳航されて日本本土に向かった。1943年(昭和18年)11月上旬のろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)で第一航空戦隊の母艦航空隊は大幅に消耗し、補充のため瑞鳳がトラック泊地より横須賀に帰投。11月16日、空母3隻(瑞鳳、冲鷹、雲鷹)は駆逐艦(秋雲、曙、潮、漣)に護衛されて横須賀を出発、21日にトラック泊地に到着した。11月30日、雲鷹と姉妹艦冲鷹は空母瑞鳳艦長の指揮下、空母3隻(瑞鳳、雲鷹、冲鷹)、重巡洋艦摩耶(ラバウル空襲で損傷・修理回航)、第7駆逐隊、第17駆逐隊浦風という編成でトラック泊地を出発した。暗号を解読したアメリカ軍は、複数の潜水艦(スケート、ガンネル、セイルフィッシュ)に輸送船団の襲撃を命じた。ところが12月4日、冲鷹が米潜水艦セイルフィッシュ("USS Sailfish, SS-192")の雷撃で撃沈され、駆逐艦2隻(浦風、漣)が生存者救助にむかうも生存者は約160名、約1250名が戦死した。戦死者3000名に達するという資料もある。曙等に護衛された空母2隻(瑞鳳、雲鷹)は横須賀に帰投した。12月15日、海上護衛総司令部麾下に第九〇一海軍航空隊が編制された。同日附で空母3隻(雲鷹、海鷹、大鷹)は海上護衛総司令部部隊に編入、12月20日には空母神鷹も編入された。だが、雲鷹は連合艦隊の麾下にあって輸送任務に従事しており、この時点で海上護衛部隊として行動する機会はなかった。1944年(昭和19年)1月4日、空母2隻(瑞鳳、雲鷹)は駆逐艦2隻(雷、電)に護衛されて横須賀を出発、9日トラック泊地に到着した。空母2隻は零式水上偵察機4機、零式観測機8機、二式水上戦闘機6機、天山艦上攻撃機7機、合計25機を輸送した。1月18日、雲鷹は第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将の指揮下に入り、軽巡洋艦(二水戦旗艦)能代、空母2隻(瑞鳳、雲鷹)、駆逐艦3隻(早波、若葉、初霜)という編制でトラック泊地を出発、先行隊(五十鈴、初春)を追って横須賀へ向かう。日本空母出撃の情報を得たアメリカ海軍はサイパン島東方で行動中の潜水艦3隻(ハリバット、タリビー、ハダック)に迎撃を命じた。1月19日10時37分、雲鷹は米潜ハダック("USS Haddock, SS-231")の魚雷攻撃を受けた。魚雷6本を発射し、ハダックの艦長は翔鶴型航空母艦を撃破したと報告した。被雷位置。魚雷は艦首左舷附近に命中し速力は4ノットに低下、瑞鳳隊(瑞鳳、若葉)は先行して横須賀へ帰投、本艦は3隻(能代、早波、初霜)に護衛されてサイパンへ避退、同地では能代に繋留された。20日、工作艦明石の工員と排水ポンプを乗せた第24駆逐隊の白露型駆逐艦海風がサイパンに到着、また損傷状況調査のため連合艦隊司令部附の塩山策一技術大佐もサイパンへ派遣されて対応を協議している。21日、二水戦(能代、早波)は海風と哨戒護衛任務を交代し、横須賀へ向かった。22日朝、駆逐艦皐月がサイパンに到着した。1月24日、連合艦隊は雲鷹護衛隊(海風、潮、曙、皐月)の編成と、駆逐艦初霜のトラック帰投を発令。だが24駆司令の要請により海風と初霜を入れ替えることになり、護衛駆逐艦は4隻護衛艦は駆逐艦4隻(皐月、潮、曙、初霜)に変更された。25日、米潜水艦ハリバットが泊地に侵入して雲鷹を雷撃しようとしたが、警戒が厳しく皐月にも攻撃されたため諦めて去った。26日、駆逐艦2隻(潮、曙)がサイパンに到着、雲鷹の護衛を開始する。27日、雲鷹隊(雲鷹、潮、曙、初霜、皐月)はサイパンを出発した。その海風もトラック泊地へ戻る途中、2月1日に米潜ガードフィッシュ ("USS Guardfish, SS-217") の雷撃によって撃沈された。一方、瑞鳳と若葉は横須賀へ帰投したのち空母2隻(瑞鳳、千代田)、重巡高雄、駆逐艦3隻(初春、若葉、玉波)という戦力で1月29日に横須賀を出港した。すると連合艦隊より重巡高雄に対し雲鷹救援命令が発せられ、2隻(高雄、玉波)は瑞鳳隊から分離。2月1日午前11時に高雄、玉波はサイパンより内地へむかう雲鷹隊(雲鷹、潮、曙、初霜、皐月)と合同。玉波は瑞鳳隊の護衛に戻った。雲鷹隊は米潜2隻(ガジョン、ソーリー)に狙われて幾度も雷撃されており、これに悪天候も加わって高雄による雲鷹曳航の試みは全て失敗した。幾度も襲撃を行う米潜水艦に対し、高雄は戦闘詳報の中で『敵潜ハ盲目蛇ニ怖ジザル呆氣者カ或ハ人ヲ舐メテ懸ッタ勇敢ナル者カ』と前置きし、「おそらく後者であろう」と推測している。雲鷹も悪天候下では前進することさえできず、ほとんど漂流状態であった。このような状況下、敷設艇猿島や駆逐艦白雲等の支援艦艇が漸次雲鷹隊に合流するが、当初の護衛部隊(初霜、皐月、潮、曙)は燃料不足に陥り、また爆雷や食料品・燃料補給のため、次々に横須賀へ回航される。5日、白雲は北方部隊(第五艦隊)の命令により大湊へ回航された。6日、高雄も燃料不足になり、先行していた初霜と合流して横須賀へ戻った。護衛は5日に合流した駆逐艦2隻(沖波、岸波)が引き継ぎ、横須賀からも第7駆逐隊(潮、曙)が再出撃する。横須賀で補給を終えた2隻(高雄、初霜)は横須賀工廠の救難部隊をのせて7日早朝に雲鷹隊と合同。同日夜、雲鷹と高雄以下11隻の護衛艦隊は横須賀に到着した。高雄は雲鷹護衛時の経験から、大型囮艦(損傷艦に偽装)・精鋭護衛艦・利根型重巡洋艦の連繋により「潜水艦狩り」を行ってはどうかと提言している。1944年(昭和19年)2月1日、護衛空母の飛行機隊の訓練・整備を担当する部隊として、第九三一海軍航空隊(司令大塚秀治中佐)が編成される。その後、雲鷹は横須賀で修理を受けるが、その際に新型機用に着艦装置が更新されている。3月1日、吹雪型駆逐艦電初代艦長や軽巡球磨艦長等を歴任した平塚四郎大佐は雲鷹艦長に任命される。7月1日附で大鷹艦長は木村行蔵大佐に交代となった。8月12日、雲鷹は横須賀を出港して呉へ回航、8月15日、第一海上護衛部隊に編入される。搭載機は第九三一海軍航空隊の九七式艦上攻撃機10機を主力とする。ほかに九三式中間練習機(通称"赤トンボ")6機を搭載。雲鷹搭載機のうち、一部は三式一号磁気探知機を装備していたとみられる。しかし8月18日、ヒ71船団護衛任務に従事していた雲鷹の姉妹艦大鷹が米潜水艦の雷撃で撃沈された。8月24日、雲鷹は練習巡洋艦香椎(旗艦)、補給艦伊良湖以下ヒ73船団(指揮官吉富説三少将/第五護衛船団司令官)に同行し、船団護衛任務に従事する。8月31日(もしくは9月1日)、雲鷹搭載機と海防艦が米潜水艦タニー("USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282")を攻撃して損害を与えた可能性があるが、実際とは異なっている。9月5日、ヒ73船団はシンガポールに到着。9月11日、雲鷹はヒ74船団を護衛してシンガポールを出発、台湾へむかった。ヒ74船団は第一護衛隊(巡洋艦香椎、海防艦《13号、19号、21号、27号》)、第二護衛隊(雲鷹、千振)、船団部隊(播磨丸、御室山丸、八紘丸、吾羽山丸、あづさ丸)という戦力である。9月16日、ルソン島方面には米潜水艦2隻(バーブ、クイーンフィッシュ)が行動しており、アメリカ軍機動部隊艦載機の不時着救助任務に従事していた。雲鷹側では台湾の高雄市への入港を目前に控え、その準備に追われていた。夜、旗艦香椎より敵潜発見の信号があり警戒するがその時点での襲撃はなかった。9月17日日付変更直後、ヒ74船団は米潜水艦バーブ("USS Barb, SS-220")から襲撃された。まず雲鷹の右舷やや後方を航行していたあづさ丸が被雷(0050沈没)、雲鷹はあづさ丸の炎上を確認して取り舵をとった。そこへバーブが艦尾発射管より発射した魚雷が右舷後方からせまり、雲鷹に魚雷2本(艦中央部、艦後部)が命中した。機関科当直員の大部分は戦死、電源も断たれたが火災は起きなかった。艦橋傍の作戦室にガソリン式発電機をもちこんで通信機能は一部回復したが、艦橋要員達は発電機の悪臭に苦労したという。4時30分には防水作業が一段落し、艦長は警戒員を残し作業を中止させた。ところが被雷した艦後部や格納庫に打ち付ける波浪により、艦尾の沈下が止まらなくなる。7時30分に沈没は確定的となり、7時45分御真影をカッターボートへ移動し、7時52分軍艦旗降下。3分後の7時55分、雲鷹は沈没し生存者約760名は護衛艦に救助された。雲鷹の乗組員約750名、便乗者約1000名のうち推定900名が戦死した。雲鷹の艦橋にいた艦長や副長は沈没時に脱出したが、艦長は行方不明となった。雲鷹戦闘詳報による沈没位置。海上護衛隊による沈没地点記録もしくは。アメリカ軍記録。戦闘詳報では、「海防艦を増備し敵潜水艦を制圧する『掃蕩隊』の新設」「航空機による前路哨戒は是非とも必要であるため、各航路の航空基地を増備強化して勢力の増大を計り、護衛空母は廃止するを認む」「護衛艦の増加が無理だとしても、空母が船団と同速力にて運動するのは最も不可である」「高速力を持って船団の後方をバリカン運動を行いながら続航する必要がある」といった提言を残している。雲鷹の沈没により、大鷹型航空母艦3隻(大鷹、雲鷹、冲鷹)はすべて喪失した。11月10日、軍艦雲鷹は大鷹型航空母艦、帝国軍艦籍より除籍された。
出典:wikipedia
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