モンパルナス駅()は、フランスの首都パリにあるフランス国鉄(SNCF)の鉄道駅の一つである。なお、かつてメトロにもモンパルナス駅()が存在したが、1942年にメトロのビヤンヴニュ駅と統合されモンパルナス=ビヤンヴニュ駅となった。パリ市の南よりのモンパルナス地区にある。行政区では14区と15区にまたがっている。主にフランス西部、南西部方面行の列車の始発駅である。なお、パリから西方向へ向かう路線はサン・ラザール駅始発のものもあり、ヴェルサイユなどへは双方から路線がある。この場合モンパルナス発のものを左岸(Rive Gauche)線、サン・ラザール発のものを右岸(Rive Droite)線と呼ぶ。メトロのモンパルナス=ビヤンヴニュ駅と接続しており、乗り換えが可能である。パリの主要ターミナル駅では唯一RERとの接続がない。南北方向に28線(東から1〜24番線および25〜28番線)の線路がある。ホームはすべて北側が行き止まりの頭端式ホームである。駅全体が北向きの傾斜地にあるため、北側では高架駅だが南側では掘割状の構造になり、パスツール大通りの跨線橋が駅の上を通っている。25〜28番線は他のホームから離れてパスツール大通りの南側にある。モンパルナス駅には3つの駅舎がある。これら3つ、特にヴォージラール駅と25〜28番ホームは地図や時刻表などで別の駅として扱われることがある。ホームは原則として以下のように使い分けられている。Transillien用ホームの入口には自動改札機が設置されている。パスツール大通りより北側のホーム上は人工地盤で覆われており、その上にアトランティック(大西洋)庭園と呼ばれる庭園がある。モンパルナス駅の起源は1840年に開業したパリ-ヴェルサイユ左岸線の起点駅である。開業時には「メーヌ城門桟橋(Embarcadère de la barrière du Maine)」と呼ばれていた。当時まだ存在していたフェルミー・ジェネロの城壁の外側の、現モンパルナス駅とほぼ同じ位置にあった。1849年にシャルトルまでの路線が開業すると駅は手狭になった。また現在のパリ市境にあたるティエールの城壁が1844年に完成しており、フェルミー・ジェネロの城壁は不要となっていた。そこでより市街地に近いモンパルナス大通りに接する位置に駅を移転することになり、ヴィクトール・ルノワールの設計による新駅が1852年に開業した。1855年にはフランス西部の鉄道会社数社が合併し西部鉄道が発足した。モンパルナス駅は西部鉄道のパリに2つあるターミナルのうち、セーヌ川の左岸側に位置していたことから「西駅-左岸(Gare de l'Ouest - Rive gauche)」の別名でも呼ばれた。なお「右岸」駅はサン・ラザール駅である。1895年10月22日にモンパルナス駅で起きた鉄道事故は、死亡者こそ1名であったとはいえ、鉄道史に刻まれる衝撃を残した。グランヴィル発モンパルナス行の列車(蒸気機関車+荷物車2両、郵便車1両、客車12両)が、直通ブレーキの動作不良のため減速できずに駅に進入した。機関車は車止めを乗り越え駅舎を突き破り、先端が約10m下のレンヌ広場の路面電車停留所に落下した。駅前で新聞を売っていた女性が駅舎の破片に当たり死亡した。また乗客2名、消防士1名、鉄道員2名の計5名が重傷を負った。事故の際に連結器が外れたため、客車はすべて駅内部にとどまっていた。事故現場を撮影した写真が2枚(右に掲げたものと反対側から写したもの)残っており、衝撃的な画像としてしばしば使用される。ロックバンド・Mr.Bigは1991年に発表したアルバム『リーン・イントゥ・イット』のジャケットにこの写真を使用した。1900年には線路4本とホームが増設されたが、第一次世界大戦後にはそれでもホーム不足が深刻になってきた。そこで1929年に、当時の駅よりも南のメーヌ広場(現ビヤンヴニュ広場)とヴォージラール大通りの南側に到着列車用のメーヌ駅(Gare du Maine)が作られた。この位置はほぼ現在のモンパルナス駅の位置である。1934年にはメーヌ駅に出発用のホームも設けられ、長距離列車はメーヌ駅、近郊列車はモンパルナス駅と使い分けられるようになった。1944年のパリの解放では、モンパルナス駅が重要な舞台となった。8月25日、南側からパリに入城した自由フランス軍第2機甲師団のフィリップ・ルクレールはモンパルナス駅に司令部を置き、ドイツ軍との市街戦の指揮をとった。同日16時頃、ドイツ軍のパリ駐留部隊司令官フォン・コルティッツが駅に出頭し、ルクレールとの会談の後降伏した。1960年代に入ると、パリの再開発の一環としてモンパルナス駅を南に移転してメーヌ駅と統合し、跡地にオフィスビルとショッピングセンターを建設することになった。新駅への移転は1965年に行われた。この時点では駅舎は頭端側(現ポルト・オセアン)のみであり、パスツール大通りは単なる跨線橋だった。旧駅の跡地には1972年にモンパルナス・タワーが完成した。1989年のLGV大西洋線開通に伴うTGVの乗り入れのため、駅は更に増改築された。1987年には駅舎(ポルト・オセアン)の改築が行われた。1991年にはパスツール大通りを挟む形でホーム上にオフィスビルが建てられ、その下にパスツール駅舎が作られた。1995年にはホーム上がすべて人工地盤で覆われ、アトランティック庭園が完成した。駅北側の旧モンパルナス駅跡地には、パリで最も高い超高層ビルモンパルナス・タワーと、ギャラリー・ラファイエットなどが入るショッピングセンターがある。旧駅跡地の東側の通りをデパール(Départ、出発)通り、西側をアリヴェ(Arivée、到着)通りというが、これは旧駅舎の左(東)側が出発用、右(西)側が到着用と使い分けられていた名残である。その北側の旧駅前広場(1940年6月18日広場、旧称レンヌ広場)からはパリ中心部へ向かってレンヌ通り(Rue de Rennnes)が一直線に延びている。これは駅開業後にオスマンのパリ改造の一環として作られたものである。通りの名はモンパルナス駅発の鉄道沿線の主要都市であるレンヌから取られた。モンパルナス駅やその周辺にはレジスタンス運動やパリの解放を記念したものが多くある。旧駅前広場の名称「1940年6月18日広場」は、シャルル・ド・ゴールが亡命先のロンドンから徹底抗戦を呼び掛ける放送を行った日付に由来する。また駅屋上のアトランティック庭園北側にはフィリップ・ルクレールとジャン・ムーランを記念する博物館がある。庭園内の歩道には「第2機甲師団(Deuxième division blindée)」や「ドロンヌ大尉(Capitaine Dronne、パリに一番乗りした戦車中隊の中隊長)」といった名がつけられている。これら旧跡の他駅周辺にはクレープを扱う店が多数軒を連ねている。メトロ4、6、12、13号線のモンパルナス=ビヤンヴニュ駅はモンパルナス駅の北側にあり、オセアン駅舎の地下一階で直接つながっている。6、13号線のホームはモンパルナス駅から比較的近くにあるが、4、12号線ホームは遠く離れている。オセアン駅舎前のラウル・ドートリー広場には「モンパルナス駅(Gare Montparnasse)」バス停があり、パリ市内各地への路線バスが発着する。また、オセアン駅舎東側のコマンダン・ルネ・ムショット通り(Rue du Commandant René Mouchotte)にはエールフランスの運行するシャルル・ド・ゴール空港、オルリー空港行のバスの停留所がある。パスツール駅舎前には「モンパルナス2・TGV駅(Montparnasse 2 Gare TGV)」バス停があり、ヴォージラール駅舎近くのコタンタン通りには「コタンタン・モンパルナス3(Cotentin Montparnasse 3)」バス停がある。いずれも「モンパルナス駅」バス停に比べ発着する路線は少ない。
出典:wikipedia
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