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牛久保六騎

牛久保六騎(うしくぼろっき)は、戦国時代の東三河地方の牛久保城主牧野氏に参集していた寄騎衆の6氏をあらわす用語。「牛窪記」(江戸時代中期成立の軍記物)の記述中に現れる 「牛窪記」は、その構成メンバー6氏の姓氏を具体的には明示していないが、同文献中に登場する東三河の司頭とされる牧野・岩瀬・野瀬・真木・山本・稲垣・牧 の各氏が該当すると推測されている。彼らは天文年間には東三河に進出してきた戦国大名の今川氏(駿河方)に属していたが、今川義元の死後は寄親の牧野氏に先んじて徳川氏と和睦、牛久保牧野氏の徳川方帰属の仲立ちをしたとされる。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、西三河の岡崎城主徳川家康は衰えがみえた今川氏から独立し、永禄4年(1561年)より、今川氏(駿河方)の勢力圏であった東三河に進攻した。東三河に位置する牛久保城主・牧野氏及び牛久保六騎は今川氏の勢力として初めはこれに強く抵抗したが、東三河において今川氏が敗色濃厚となった永禄8年(1565年)より、牛久保六騎は城主牧野氏に先んじて徳川方と和睦した。翌永禄9年(1566年)には城主牧野成定を説得して、同5月、成定の和睦・開城を実現し、家康より牛久保衆の掌握を命じられた(下記判物 )。牛久保城主・牧野成定が徳川家康に臣従した際に家康より発給された永禄9年(1566年)5月9日付けの家康の判物の末尾に「諸給人の儀、五・六人衆に相計る可き事」と特に付記されている。また同年10月23日(新暦11月19日)に牛久保城主・牧野成定が病死した際には、家康の異母弟・水野信元より下し置かれた徳川家康判物への添え状(同年11月13日付け(新暦12月9日付け))に、牧野山城守・能勢丹波守・(岩瀬)嘉竹斎・真木越中守・稲垣平右衛門尉・山本帯刀左衛門尉・同美濃守と宛名が記載。 されている。室町時代(戦国時代中期)の天文7年(1538年)に、牧野氏・真木氏・岩瀬氏・野瀬氏が紛争を収めて連署した判物である「牛窪北鉄屋大工助九郎安堵状」が現存。愛知県図書館に寄託されている。但しこの史料の文中には、牛久保六騎と云う語彙はなく、地頭となっている。この文献の存在によって、牧野氏・真木氏・岩瀬氏・野瀬氏が、その当時から一定の実力を持った支配階級(土豪)であったことが証明できる。戦国時代に、東三河において牛久保城主牧野氏と同等の勢力があったか否かは疑問が残るが、越後国長岡藩の伝説を記述した「温古之栞」によると、三河国牛久保城主の牧野新次郎(康成)は、徳川家康に(降伏を勧められて恭順し)安堵された所領を、牧野氏・真木氏・野瀬氏などと均分に分けたとしている。但し、この文言は、徳川氏に恭順後のものであり、牛久保六騎時代の同時代文書とは言いがたい。「温古之栞」の中には稲垣氏、山本氏、岩瀬氏に関する記述が含まれていないが、この三騎は徳川家康に臣従して、所領を直接安堵される一方で、牧野組の旗下に附属していたと推察される。

出典:wikipedia

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