山名 堯熙(やまな あきひろ/たかひろ、新字体:山名尭熙、永禄2年(1559年) - 寛永4年7月4日(1627年8月14日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。但馬山名氏当主。山名祐豊の三男。兄弟に棟豊(むねとよ)、義親(よしちか)。子に堯政(あきまさ/たかまさ)。別名は氏政(うじまさ)。通称は慶五郎。官位は右衛門佐。但馬国の大名・山名祐豊の三男として誕生。長兄・山名棟豊(宗鑑寺殿瑞微宗麟大居士)次兄・義親(極楽寺殿剣江宗龐大居士)の後を受け、山名氏を継承した。長命であった父・祐豊との共著の文書が多く残り、家督継承後も隠居の父の威厳が強かったと思われる。父の祐豊は、はじめ但馬にまで侵攻した伸長する織田氏と抗戦した後に織田方に属していた。天正3年(1575年)に重臣・太田垣氏らが毛利方の吉川元春と和睦してしまったため、織田信長から織田氏に離反し毛利氏についたとみなされ、天正8年(1580年)に信長から中国地方攻略を命ぜられた羽柴秀吉に居城の有子山城を攻められ降伏した。父の祐豊は開城後、まもなく死去する。しかし父と意見の合わなかった堯熙は開城前に隣国の因幡国(丹後国という説も有る)へ逃れたため生き残れた。羽柴氏の陣を訪問したところ、秀吉に請われ家臣となる。天正8年(1580年)には因幡国八頭郡に領地を給された。羽柴家から市場城の城主に任ぜられ、この城から山名豊国らの籠る鳥取城攻めに参加している。鳥取城が落城し、因幡平定が終了すると馬廻衆(親衛隊)の一人に加えられたという。天正10年(1582年)には播磨国加古郡に転封となり2,000石余(5,000石とも)を領した。晩年の秀吉の御伽衆の一人に加えられていたが、秀吉死後は子の山名堯政と一緒に豊臣秀頼の傍近くに仕えたという。堯政と共に秀頼に近侍した旧室町名族には、細川京兆家の細川頼範(細川昭元嫡男)や河内守護家の畠山政信らもいた。慶長17年(1612年)9月28日にはさらに摂津国能勢郡与野村に596石2斗が秀頼より加増されている。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にて豊臣氏は滅亡。この戦いにて息子の一人である堯政も父に先立ち戦死した。ほかに豊郷という男子があった。堯熙は大坂の陣後は京都六条の屋敷にて閑居したともいわれている。没年および墓所については諸説有る(後述)。子孫は地方の藩の藩士になったほか、徳川将軍家の幕臣である清水氏の養子になった子孫が(他氏を継承した為、山名氏の名跡を継いだ子孫とは言えない)ある。
出典:wikipedia
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