魚津大火(うおづたいか)は1956年9月10日に富山県魚津市で発生した大火災である。魚津市内では江戸時代から終戦直後にかけて、大規模な火災が数回発生したが、ここでは前述した1956年の大火について記述する。9月10日19時45分、真成寺町の納屋から出火。20時に通報を受けた(当時の魚津市内の電話は自動交換方式ではなく、通報者は電話交換手を通じて通報していた)。消防車が着いたころには、隣接する大劇映画館にまで延焼していて、手がつけられなくなっていた。当時の市街地は木造建築が多い上、道幅が狭く、思うように消火活動がはかどらず、さらに何度も風向が変わったため、たちまち神明商店街(現在の中央通り商店街)や市街地北部へ延焼し、あっというまに市街地北部を焼け野原にしてしまった。北日本放送ラジオも、大火の状況をラジオで放送していた。当時は、九州西方海上を通過した大型が日本海を北東進しており、本州の日本海側ではフェーン現象により乾燥した強い風が吹き続けていたので、非常に火災が起こりやすい状況であった。以前にも、1954年9月の洞爺丸台風による北海道岩内町(岩内大火)、1955年10月の台風22号による新潟市(新潟大火)、さらに1956年8月には台風9号による大館市など、台風に伴う大火災が頻発しており、この時も警戒されていたが、効無く大火となったものである。その上、市街地内にある唯一の自然水利だった鴨川が、上流の発電所の水路補修や水田への導水のため、水が殆どないという始末であった。当時の市内には157基(市街地で119基、焼失区域内に58基)の消火栓もあったが、火の回りがあまりにも強く避難を余儀なくされ、消火栓を開けっ放しにしてしまったため、消火栓の水圧が下がってしまい、効果的な消火はできなかった。さらに各地で飛び火による火災も発生している(経田や黒部市生地にまで飛び火したとも言われているが、いずれも放火の可能性が高い)。この大火により、周辺市町村から消防車100台が駆けつけ(新潟県糸魚川からやってきた消防車もあった)、金沢に駐屯していた自衛隊も出動する事態となった。11日午前2時10分ごろに鎮火。焼失戸数1583戸、罹災者7219人、死者5名、負傷者170名(うち重傷者5名)という魚津市の火災史上最悪の被害となった。出火の原因は、放火、火の不始末、自然発火などいろいろな説があるが、結局、現在もはっきりとした原因がわかっていない。『魚津大火復興50周年記念誌 魚津大火の記録』9ページでは、以下の5名が犠牲となっている。など市はこの大火を受けて、早月川右岸に100戸の仮設住宅を設置するなどした。焼失した村木小学校の児童は、大町小学校や本江小学校、東部中学校、西部中学校、魚津高等学校、道下公民館で分散授業を受け、西部中学校の講堂も罹災者に開放された。さらに、市連合婦人会の炊き出しや、市連合青年団の焼け跡整理なども行われ、全国から義捐金や救援物資も送られてきた。大火後の都市計画により、中央通り商店街、真成寺町商店街(魚津銀座)は鉄筋コンクリートの近代的な商店(いわゆる「防火建築帯」)が建ち並ぶようになり(1959年に完成)、市街地を貫く都市計画街路魚津中央線や都市計画街路魚津臨港線も整備され、近代的都市に生まれ変わった。1962年にすべての復興事業が完成した。また、1958年に富山県で国体が開催された際、昭和天皇、香淳皇后が村木小学校屋上から火災復興状況を見学した。
出典:wikipedia
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