武利森林鉄道18号形蒸気機関車(むりいしんりんてつどう18ごうがたじょうききかんしゃ)は、東京深川にあった雨宮製作所によって1928年に製造された蒸気機関車。1909年開業の津軽森林鉄道を皮切りに日本各地に建設された、農商務省山林局や帝室林野局、それに北海道庁拓殖部林務課などが所轄する軌間762mm(2ft6in)で軽便鉄道規格の木材搬出用森林鉄道においては、アメリカのボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(BLW)社やドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペル(O&K)社など日本国外のメーカー各社から輸入された蒸気機関車を運材列車の牽引機として用いていた。しかし、1914年8月に勃発した第一次世界大戦の期間中、国外メーカー各社が戦時体制下で軍需向け製品の製造に追われ、また日本の交戦国となって商取引が途絶した結果、それらのメーカーの製品で占められていた日本の小型蒸気機関車市場は第一次世界大戦に伴う特需で日本国内の経済が活性化し、旺盛な需要があったにもかかわらず供給が途絶、結果的に一時的な市中在庫の払底という状況が出来した。そのため、その不足を埋める形で日本国内各地において小規模な機関車メーカーが複数台頭し、図らずも小型蒸気機関車の国産化が急速に進展した。かくして第一次世界大戦開戦に伴うBLW社製B1リアータンク機の納入遅れから、まず帝室林野局が小川森林鉄道の建設工事遅延を避ける目的で工事用として大日本軌道(後の雨宮製作所)から同社のカタログモデルである8.1tB型サイド・ウェルタンク機をNo.1として1914年に購入した。この時期には小川森林鉄道No.1を含め合計5両の同系機が2つの森林鉄道へ納入されたが、大日本軌道の車両設計製作技術が未熟であったことなどからその評価はあまり思わしくなく、本格採用されるには至らなかった。しかし、日本の工業化が進んだ1920年代後半には、そうした大日本軌道→雨宮製作所をはじめとする日本国内の機関車メーカーの車両設計製造技術水準が大幅に向上したことから、官公庁側でも再び国産品採用の機運が高まった。北海道においても、従来は温根湯・置戸、足寄・陸別・トマム・津別、と麾下の各森林鉄道で路線建設に合わせてアメリカやドイツのメーカーから輸入機関車を購入していた北海道庁拓殖部林務課が、この時期に国産品の導入を検討するようになった。そうして北海道庁における日本製機関車導入の第一陣となったのは、1928年の武利森林鉄道向けであった。同鉄道の開業に際し、雨宮製作所へNos.18 - 20と付番された3両の11t 飽和式C型サイド・ウェルタンク機が1両あたり8,600円で発注された。これら3両は導入後概ね良好な運用成績を収め、以後の日本の森林鉄道における蒸気機関車国産化の端緒となった。飽和式の煙管ボイラーを搭載し、直径610mm(2ft)の小さな動輪を3つ連ね、それらに不釣合いなほどに立派なワルシャート式弁装置を備えた、単式2気筒Cタンク機である。雨宮製作所の製作した蒸気機関車としては、同年製作の陸軍省鉄道聯隊向けN1形と共に、先行して製作された朝鮮鉄道黄海線向け620形の系譜に連なる、会社として積極的に新技術を導入していた時期の意欲作であり、やや腰高な印象はあるものの車体寸法の割に水タンク容積が大きく航続力が長いなど設計の完成度が高く、堅牢かつコンパクトで実用的な設計となっている。設計のルーツとなったのは、板台枠やウェルタンクをはじめとする下回りの各部構造の特徴から、同時期の他社向け雨宮製作所製機関車と同様、1910年代まで日本の小型蒸気機関車市場を席巻したO&K社製機関車とみられるが、やや重心が高く寸詰まりな印象を与える大径ボイラーや、缶胴部の前端ぎりぎりに置かれた蒸気ドーム、その直上に露出して取り付けられた加減弁、水平面からわずかに傾斜して取り付けられたシリンダー、それに木材と石炭を併用可能とした火室構造などの設計に、お手本となったO&K社製機関車の模倣から一歩踏み出した、雨宮独自の個性が現れている。以後、雨宮製作所としての森林鉄道向け小型蒸気機関車の製造は、1929年から1930年にかけて納入された帝室林野局奥名寄森林鉄道向けNos.1・2、1929年の扇田森林鉄道Nos.1・2、それに1930・1931年の津軽森林鉄道Nos.8・9の6両が続いたが、世界恐慌で壊滅的打撃を受けた雨宮製作所は1932年頃までに解散したため、本形式の技術的系譜は直接的にはそこで絶えている。なお、本形式は竣工時より、特に木材を燃料とする際に発生しやすい火の粉の飛散による山火事を抑止する目的で、火の粉止め装置を内蔵した円錐形の大きな煙突を装着している。1928年9月に竣工し、3両共に当初丸瀬布町(現北海道遠軽町) の武利森林鉄道に投入された。これらの内、No.18は新造後まもなく落合森林鉄道へ移管され、その後1945年の層雲峡森林鉄道建設に伴い同鉄道へ再移管、そこで1947年の林政統一を迎え、1949年の機関車番号の整理に伴う大改番の際にNo.71へ改番、1951年に層雲峡森林鉄道が専用自動車道路へ転換された際には古丹別森林鉄道へ再々移管され、そこで1955年に廃車解体された。一方Nos.19・20は終始武利森林鉄道で運用され、1949年の大改番でNo.19がNo.21へ改番された以外は特に大きな改造も無いままに使用された。もっとも、1950年代に入り、普及が始まったディーゼル機関車によって代替される形で1957年には2両とも使用が停止され、1958年に書類上は2両とも廃車となり、2両の内No.20は解体された。最後まで残されたNo.19→No.21は1961年にさよなら運転を実施した後、「解体にしのびぬ出来映え」と称えられ、恒久保存の手配がとられた。その後は長期に渡って保管された後、1976年に丸瀬布町に寄贈され丸瀬布神社境内に保管された。1980年に札幌交通機械でボイラー回りを含めた徹底的なレストレーションが実施され、可動状態に復元された。以後は動態保存として、現在も遠軽町丸瀬布上武利の森林公園いこいの森内で春から秋にかけての同園営業期間中のうち、土・日・祝日(夏休み期間は毎日)に運転を行っている。2004年10月22日に北海道遺産に指定され、2008年9月13日には生誕80年の記念イベントが森林公園いこいの森で行われた。2009年2月には経済産業省の「近代化産業遺産群 続33(森林鉄道)」の一つとして近代化産業遺産に認定。2012年10月14日には北海道旅客鉄道(JR北海道)より「森林鉄道蒸気機関車 雨宮21号」として準鉄道記念物に指定された。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。