PYG(ピッグ)は、1971年に結成され、当時はニューロックと呼ばれた日本のロックバンド。グループ名の由来は「豚のように蔑まれても生きてゆく」。同じ渡辺プロダクション所属だったアラン・メリルのアイディアによって本来のpigをPYGとした。グループサウンズという言葉すら完全に過去のものとなっていた1970年11月、ブームの中でも最高の人気を誇ったザ・タイガースの解散が発表された。そして12月には、かってタイガースと人気を二分したザ・テンプターズの解散公演が東京・大手町のサンケイ・ビル内の小ホールでひっそりと行われた。また、GSブームの火付け役ともいえるザ・スパイダースも、同年12月をもって正式に解散を発表した。1967年夏からは「GSの祭典」として熱狂的なブームの象徴となっていた「日劇ウエスタンカーニバル」も、翌1971年をもって定例公演を終了することが発表される。1971年1月の第43回日劇ウエスタン・カーニバルでは、解散を同月24日に控えたザ・タイガースの他、前年12月に解散したザ・スパイダースがこのステージのために「再編成」という形で出演し、同じく解散した弟分のテンプターズから萩原健一も加わり、ステージを盛り立てた。その直後の1971年1月11日、東京・四谷の料亭に元テンプターズから萩原健一と大口広司、元スパイダースから井上堯之と大野克夫、それにタイガースの岸部修三(岸部一徳)と沢田研二が集結。沢田を除く5人は1970年末から、その頃既に台頭していたニューロック(その頃出始めたハードロックやブルースロックといったスタイルを、日本では総じて「ニューロック」と呼んでいた)のバンドを結成する計画を話し合ってきていた。一方1969年秋頃から、タイガースが所属していた渡辺プロダクションは、沢田を将来的にソロシンガー/タレントとして活動させることを目論みバンド内であからさまに沢田を優遇、他のメンバーを「バックバンド」として差別してきたが、当の沢田はソロになることを頑なに拒否、タイガース解散にも最後まで反対していた。沢田はあくまでバンドとしての活動に執着。この姿勢は、後々まで専属バンドと共に活動するという沢田のポリシーになっていく。そんな沢田を、岸部が前述の「ニューロックバンド構想」に誘う。沢田も「サリーがいてくれるなら」と加入を決意。渡辺プロも、沢田をプロダクションに残すことが最重要事項だったため、新バンドを渡辺プロに所属させるという条件でこれを認め、新バンドやメンバーのマネージメントを行う子会社「渡辺企画」を設立する。1971年1月24日、日本武道館においてタイガースは解散コンサートを開き、GSの雄であった彼らの解散によって“グループサウンズ”という音楽的な在り方自体も幕を下ろした。これにより、それぞれのGSグループが解散した6人はリハーサルを開始。バンド名をPYGとし2月1日にデビュー。井上堯之をリーダーとして、本格的ロック・バンドを目指した。1971年3月に京都大学西部講堂で行われたロック・フェスティバル 第1回 MOJO WEST でのデビュー・アクトでは、聴衆から猛烈な罵声を浴び会場は大混乱(内田裕也が聴衆を説得し、収拾した)。4月に日比谷野外音楽堂で開催された 日比谷ロック・フェスティバルでも、「帰れ」コールを浴びせられ、ステージに物が投げられるなどの騒ぎとなる。こうしてまさに暗中模索ともいえる船出の中、4月10日にファースト・シングル『花・太陽・雨』(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之)、8月10日にファースト・アルバム『PYG!』を発売する運びとなる。なお、『PYG!』はオリコンアルバムチャートの10位となった。 1971年9月、ドラムスが大口広司から「ミッキーカーチス&サムライ」のメンバーだった原田祐臣へ交替。1971年11月1日、「萩原健一+PYG」のクレジットでサード・シングル『もどらない日々』(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之、ファースト・アルバムからのシングルカット)が発売された同日、沢田は初のソロ・シングル『君をのせて』(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、演奏はケニー・ウッドオーケストラ)を発売。さらに12月にはセカンド・アルバム『JULIE II IN LONDON』発売。1972年萩原健一主演のテレビドラマ『太陽にほえろ!』がヒットし萩原の俳優としての評価が徐々に高まると、萩原が参加できるときはPYGとして、参加できないときには「沢田研二と井上堯之バンド」(または井上堯之グループ)として活動するようになってゆく。また、のちに井上堯之バンドの代表曲と言えるほど有名になった『太陽にほえろ!メインテーマ』や同ドラマのサウンドトラックも、レコーディング時は「PYG」としてレコーディングされ、マスターテープのラベルや録音日誌には「PYG」と明記されている。1972年3月11日発売のセカンド・シングル『許されない愛』(作詞:山上路夫、作曲:加瀬邦彦)がヒットし、第14回日本レコード大賞歌唱賞、第5回日本有線大賞優秀賞を受賞すると、PYGとしての活動はさらに形骸化していく。結局、1972年11月21日発売のラスト・シングル『初めての涙』(作詞:大橋一枝、作曲:大野克夫)を最後にPYGは自然消滅の形で終焉を迎えた。沢田研二は本格的にソロ歌手へ、萩原健一は『ブルージンの子守唄』をリリースする傍ら俳優へ、そして残りのメンバーはそのまま「井上堯之バンド」へ移行する。しかしながら、これはこのシングル『初めての涙』以降、一度も「PYG」名義でのレコード発売がなされていないのと、1972年夏の「日劇ウエスタン・カーニバル」を最後に「PYG」としての主だった活動がない(1972年12月の「日劇ウエスタン・カーニバル」には「沢田研二と井上堯之グループ」として出演)ことを根拠に、結果論的に「消滅」あるいは「解散」となったものであり、正式に解散が発表されたわけではない。1975年頃までは、PYGのオリジナル曲やレパートリーを積極的にコンサートに取り上げていたり、雑誌インタビュー記事などで沢田が井上堯之バンドのことを「PYGの仲間」と表現し「一人の歌手として、またPYGの一員として…」などと自分の抱負を語っているのが散見される。このことから、仲間内での意識は1973年以降もしばらく「PYG」のままであり、特にオリジナルメンバーの岸部一徳が脱退し俳優に転向する頃までは、萩原が一緒に参加できれば「PYG」としての活動も継続していく意向があったようである。実際、1974年5月27日放送の『夜のヒットスタジオ』では久々に沢田と萩原という同バンドのツインボーカルがそろったジョイント企画が行われ、最初は「沢田研二と井上堯之バンド」として登場するものの、途中で萩原が加わった時点でテロップが「PYG」と変わり、ラストシングルとなった「初めての涙」などを演奏した。以降、PYGとしての再結成は行われていないが、萩原健一、沢田研二共にソロになってからのコンサートで度々PYGの楽曲を取り上げている。1978年には、名古屋で行われていた萩原健一のコンサートに沢田研二が、また翌日、同じく名古屋で行われていた沢田研二のコンサートに萩原健一が飛び入り参加し、共に「自由に歩いて愛して」を歌い、大口、岸部、原田を除くPYGのメンバー4人揃っての共演が実現している。また沢田研二がヒットシングル『勝手にしやがれ』で第19回日本レコード大賞を受賞した際の授賞式には、萩原健一と岸部一徳がザ・タイガースの元メンバーらとともにステージに上がり沢田研二を胴上げ。バックを担当した井上堯之バンドの井上堯之、大野克夫とともにPYGのメンバー中5人が揃ってステージに上がった。1981年1月22~25日に日劇で行われた「最期のウエスタンカーニバル」において、グループサウンズ全盛期の代表的バンドが再結成し往年の演奏を再現した。ザ・スパイダースとして井上と大野、ザ・タイガースとして沢田と岸部が参加、ザ・テンプターズは再結成せず萩原が自身のバンド「Donjuan Rock'N'Roll Band」(ドラムスは大口と原田)を率いてトリで参加した。フィナーレで他の出演者たちも加わり全員で萩原の『ローリング・オン・ザ・ロード』(大野が作曲、内田裕也が競作)を歌った。ステージ中央に沢田、萩原、井上、大野が並び、岸部、大口、原田もステージ上にいたことから、PYGの元メンバー全員が揃った。「ジュリーとショーケン2大アイドルスターによるツインボーカル」というコンセプトは大きく話題となり、それなりにコンサートも盛り上がったものの、実際の客席においては、それぞれのファンでの熾烈な争いが勃発。沢田がボーカルを取っている時に萩原のファンがタンバリンなどを叩いて妨害したり(実際2枚組ライブアルバム『FREE with PYG』の『アイ・ゴナ・リーヴ・ユー』の曲中、沢田が萩原のファンに対して「タンバリンやめて!」と呼びかける模様が収録されている。)、また萩原が歌っている時に沢田のファンが大声でおしゃべりをするなど、嫌がらせの応酬が繰り広げられることも多々あった。1971年9月にドラムスの大口が脱退し、また萩原の活動がTV・映画中心となってゆくにつれ、ザ・テンプターズ時代からのファンは徐々に姿を消し始め、1972年には客席のほとんどが沢田のファンで占められるようになった。また、日比谷野音をはじめ各種ロックフェスティバルにも出演するが当時の硬派なロック・ファンには ロック=反体制の音楽 という図式があり、芸能業界最大手(当時)である渡辺プロダクション所属のPYGは、体制的商業主義と見なされて受け入れられず、その嫌悪感から猛烈な非難を受浴び、「GSの残党」「商業主義」と徹底的に嫌われ、空き缶やトマトが投げつけられることがあった。しかしながら、井上堯之、大野克夫、岸部一徳といったGS時代から演奏能力を高く評価されていたメンバーがバックを固めていたこともあり、ミュージシャンの間では一目置かれる存在であったほか、オリジナル曲が後年になって再評価されることも多いバンドである。ベースの岸部一徳が作詞をしたデビュー曲「花・太陽・雨」は、『帰ってきたウルトラマン』の劇中歌にも採用されるなど、楽曲面でもとても影響力が高かった(シングルバージョンとアルバムバージョンの2種類が存在)。またシングル曲ではないが『PYG』に収録のナンバー『戻れない道』は2009年『潜在異色』のオープニング曲として採用された。ヒット曲「自由に歩いて愛して」は、数々のアーティスト等がカバーしている。ロックが文化として確立した現在とは違い、当時はまだ、たとえロックコンサートであっても2-3部構成であったり合間にゲスト演奏やトークコーナーが挟まったり、果てには当日のセットリスト(アンコール含む)がパンフレットにあらかじめ記載されているなど、それまでの歌謡曲の流れを踏んだ「リサイタル」形式のステージ構成が当たり前のように行われることが多かった。PYGのコンサートは、老舗・渡辺プロダクションが取り仕切っていたため特にその傾向が強く、合間に「ジュリーコーナー」「ショーケンコーナー」が設けられ、それぞれが持ち歌を続けて披露する場面があった。そのため、萩原の参加が難しくなり「沢田研二と井上堯之バンド」での活動が多くなってもそれほど違和感無く受け入れられていった経緯もあるが、この事が、「ロックバンド」としての過小評価に結びついてしまっている側面もある。ライブでは『ブラック・ナイト』(日本で初めてテレビでライブ演奏した)、『ブラッドサッカー』、『アイ・ゴナ・リーヴ・ユー』、『ギミー・シェルター』など、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、フリー、ローリング・ストーンズなどのハードロック志向の選曲を好んで演奏していた(2枚組ライブアルバム『FREE WITH PYG』で聴くことができる)。また、キング・クリムゾンの『エピタフ』など、プログレのレパートリー(大野の志向による)や、ヘビー・メタル風のブラック・サバス『パラノイド』(岸部の志向)などもレパートリーとしていた。
出典:wikipedia
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