ラリー・アルトン・パリッシュ(Larry Alton Parrish , 1953年11月10日 - )は、アメリカ合衆国・フロリダ州出身の元プロ野球選手(内野手)。2015年までMLB・デトロイト・タイガース傘下AAA級トレド・マッドヘンズの監督を務めていた。MLBでは通算256本塁打を記録。モントリオール・エクスポズ時代の1978年7月30日の対アトランタ・ブレーブス戦では3・4・5回と3イニング連続本塁打を記録している。にパワーの面で期待されNPBのヤクルトスワローズに入団。同年は42本塁打、103打点をマークし本塁打王のタイトルを獲得、ベストナインに選出される。しかし三振も多く、池山隆寛、広沢克己と3人揃って「100三振トリオ」と呼ばれた。三振した後、ベンチで暴れる事もあったため、ストレス解消のための「ラリー君人形」なるサンドバッグが置いてあった。1989年オフ、監督に就任したばかりの野村克也は三振の多いパリッシュの打撃を低評価し、ヤクルトを自由契約となる。セシル・フィルダーが退団して代役を探していた阪神タイガースが獲得。入団したパリッシュは、シーズン序盤から前年の本塁打王の貫禄を見せ付け、本塁打を量産。同年にはオールスターゲームにも出場した。ところが、8月に古傷の膝が悪化してしまい、その時点でホームラン王争いで単独トップに立っていたのにも係わらず、8月27日の試合を最後に突然引退し物議を醸した。当時の読売ジャイアンツのエースだった斎藤雅樹を大の苦手としており、2年間で斎藤からはホームランを1本も打てず、阪神時代にはホームランはおろか、ヒット自体を打てずに終わった。池山曰く、斎藤が先発と聞くと「いやだ、いやだ」と顔をしかめていたくらい苦手意識を持っていた(池山が著書でコメント)。1989年9月24日の試合では斎藤の先発が予想されたため、パリッシュの代わりに4番ファーストに偵察メンバーが置かれ、先発が斎藤と分かると杉浦亨に交代した(この試合はその杉浦のタイムリーで1-0で勝利した)。阪神移籍後の1990年6月15日の対巨人戦でも、斎藤の先発ということで欠場している。引退後は、デトロイト・タイガース傘下のA級ナイアガラフォールズ、AA級ジャクソンビルの監督などを経て、にデトロイト・タイガースのベンチコーチに就任。シーズン途中にバディ・ベルに代わり監督に就任し、まで指揮を執った(1999年に在籍した選手に木田優夫がいる)。からAAA級トレドの監督となり、・にはチームを2年連続でリーグ優勝に導いた。また、には惜しくもリーグ優勝は逃すものの地区優勝は達成し、地区優勝3連覇を成し遂げた。当時のマイナーリーグ監督の中では、名将と呼べる存在だったと言える。は、アトランタ・ブレーブスで打撃コーチを務めた。ヤクルト入団会見で好きな食べ物を聞かれて、「フロリダでは普通に食べるワニの肉だ」と答え、ワニを食べる男として話題になった。結局探し回って東京都内に1軒だけワニ肉を提供する店があり、そこでスタミナを付けた。元ニッポン放送アナウンサーの深澤弘が、とある審判から聞いた話によると、ヤクルト在籍時、同じく1989年に阪神在籍のセシル・フィルダーが一塁ランナーとして出塁すると、「『お前はまだ若いんだからこんなところに居ちゃだめだ。メジャーでがんばれ。』としょっちゅう言っており、フィルダーは俯いてじっと聞いていた。」「父親が息子に説教しているようだった。」「フィルダーが1年で阪神を退団した背景には、パリッシュの説得の影響があったのかもしれない。」とプロ野球ニュースのオフ企画で明かした。1989年の5月31日の対阪神タイガース戦で阪神の渡辺伸彦がパリッシュに死球を与え、パリッシュが渡辺に激怒したことから両軍入り乱れての乱闘騒ぎになった。この乱闘でパリッシュは暴力行為で退場処分となった。またそれから12分後、渡辺が今度は中西親志にブラッシュボールを投じたことでもう一度乱闘が発生している。
出典:wikipedia
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