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スポーツカー世界選手権

スポーツカー世界選手権(スポーツカーせかいせんしゅけん、、通称:SWC)は、かつて国際自動車連盟 (FIA) が主催し世界各国を転戦して行われた2座席スポーツカーによる耐久レースの世界選手権である。1953年、世界スポーツカー選手権としてスタートし、その後幾度か名称・レギュレーションを変更した後、1992年に40年の歴史に幕を閉じた。2012年からFIA 世界耐久選手権として、新たに開催されることとなった。1953年、「世界スポーツカー選手権(World Sportscar Championship)」としてスタートした。1950年開幕のF1世界選手権が単座フォーミュラカーによる短距離レースで、ドライバー主体の競技だったのに対し、世界スポーツカー選手権は2座席スポーツカーの長距離レースで、車両製造者(メーカーもしくはマニュファクチャラー)を主体として構成された。以降、1962年より「国際マニュファクチャラーズ選手権」(1966年から国際スポーツカー選手権併催)、1968年より「国際メーカー選手権」、1972年より「世界メーカー選手権」(1976・1977年は世界スポーツカー選手権併催)、1981年より「世界耐久選手権(通称:WEC)」、1986年より「世界スポーツプロトタイプカー選手権(通称:WSPC)」、1991年より「スポーツカー世界選手権(通称:SWC)」と名称を変え歴史を刻んできたが、1992年限りで廃止された。シリーズの中では伝統の耐久レース「ル・マン24時間レース」がとくに有名だが、運営方法やレギュレーションの問題で、レースを主催しているフランス西部自動車クラブ(ACO)とFIAが対立し、シリーズから外れることもしばしばあった。1950年代は純レーシングカーに近いスポーツプロトタイプカーを中心に開催されていたが、安全性の見地から、1962年より量産GTカーの選手権とされた。しかし、プロトタイプの人気を反映して、スポーツカー(GTカー)とプロトタイプの選手権2本立てとなり、1968年には両者の性能を調節して再び1本化された。1960年代にはアメリカのフォード(およびシェルビー)が大々的に参戦し、ヨーロッパの覇権を握るフェラーリに挑戦した。さらに、中排気量クラスの雄であるポルシェが総合優勝を目指すようになり、3者の対決はF1を凌ぐ人気を得ていた。しかし、度重なるレギュレーション変更と1970年代前半のオイルショックの影響により、有力ワークスの撤退が相次いだ。ポルシェを軸に、マトラ、ルノー(参戦登録名はアルピーヌ)、ミラージュなどのメーカーが参戦するも、シリーズは低迷期を迎えた。1976年には市販車を大改造したシルエットフォーミュラ規定が導入されるが、ポルシェの一人勝ち状態となりシリーズの活性化には繋がらなかった。1982年、プロトタイプに排気量無制限ながら使用燃料総量の規制を加えたグループC規定を採用したことで、メーカーの参戦意欲を刺激し、シリーズは再び隆盛を迎える。ポルシェに加えてランチア・メルセデス・ジャガー・アストンマーティンといった古豪が復活し、トヨタ・日産・マツダといった日本のメーカーもル・マン制覇を目指して参戦を開始した。1989年の全戦参加義務付けで、シリーズには7つものメーカーが参戦し、好況も手伝ってエントリーも常時30台を超えた。1991年にはマツダが日本車として初めてル・マンを制した。しかし、1991年よりFIAがF1と同じエンジン規定(3.5L自然吸気エンジン、燃料使用料規制撤廃)を導入すると、新規定のエンジン開発が間に合わなかったトヨタ・日産や、重量ハンディを負った旧規定のポルシェを使うプライベートチームが参加を回避した。そのため、プジョーの新規参入にも関わらず、シリーズエントリーは激減し、開幕戦の出走台数は前年の34台から15台へと大きく減少した。参加したメーカーもFIAの運営に不満を抱き、メルセデス・ジャガーは1991年シーズン終了後シリーズ撤退を表明し、選手権は事実上空中分解した。翌1992年はプジョー・トヨタ・マツダの3メーカーが参戦したものの、プライベートチームの参戦はほとんどなく、エントリーはル・マン(この年は過去最低の28台)を除き常時10台前後しか集まらない状態に陥った。この年限りで40年もの歴史を持つスポーツカー耐久レースの世界選手権は終焉を迎えることとなった。その後 世界選手権は行われていなかったが、ACO主催で欧州中心に行われる ル・マン・シリーズ(通称:LMS)、北米中心に行われるアメリカン・ル・マン・シリーズ(通称:ALMS)が開催され続けた。2010年より、LMSとALMSに加えインターコンチネンタル・ル・マン・カップ(通称:ILMC)が開催され世界を転戦し、これは事実上の世界選手権の復活と言えた。そして、2011年6月の世界モータースポーツ評議会において、FIAとACOが提携し2012年からFIA 世界耐久選手権(FIA World Endurance Championship, 通称:WEC)が開催されることが決定された。20年ぶりに復活したこのスポーツカー耐久レースの世界選手権は、初年度にはル・マン24時間レースをはじめとする8つの大会が開催され、アウディがチャンピオンを獲得している。以下のものは、過去にシリーズに組み込まれていたレースである。()内はシリーズに組み込まれていた年である。世界耐久選手権(WEC)時代のグループC初年度となる1982年に、富士スピードウェイにてWEC-JAPANとして初めて開催された。日本での世界選手権は同じ富士で開催された1977年F1日本GP以来、5年ぶりの開催であった。1983年にはグループC規定の国内シリーズとして全日本耐久選手権(後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権 , 通称:JSPC)もスタートした。以降1988年まで富士で開催された。1989年世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)の大改革で、施設的に見劣りする富士から鈴鹿に開催地が変更されたが、観客は激減してしまった。鈴鹿ではその後スポーツカー世界選手権(SWC)が消滅する1992年まで開催された。1992年は伝統の鈴鹿1000kmに世界選手権がかかることとなった。富士・鈴鹿以外では、1991年SWC最終戦としてオートポリスで開催された。この年日本では鈴鹿とオートポリスの2回開催となった。このレースはジャガー、プジョー、メルセデス、トヨタの4メーカーのカテゴリー1(3.5L自然吸気エンジン搭載車)が揃う最初で最後のレースとなった。また結果的にジャガー、メルセデスの最後のグループCレースともなった。この他、1987年富士の翌週に西仙台(現仙台ハイランド)でスプリントレースが予定されていたが、開催1週間前に突然キャンセルされるハプニングが起きた。1992年の開幕戦の当初カレンダーにはオートポリスがあったが、後にキャンセルされている。

出典:wikipedia

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