献帝(けんてい)は、後漢の最後の皇帝。諱は協。霊帝(劉宏)の次子で、少帝弁(劉弁)の異母弟。母親は王美人(王栄)。諡号は、魏からは孝献皇帝、蜀からは孝愍皇帝。母は劉協を産むと、何皇后の嫉妬を受けて毒殺されたという。母を失った劉協は、霊帝の生母の董太后が住む宮殿で養育されたため、董侯と呼ばれた。中平5年(189年)4月、霊帝が崩御すると劉弁が即位し、劉協は渤海王に封じられた。同年秋7月、陳留王に移封される。当時、朝廷では外戚であった何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していたが、8月に何進が嘉徳殿の前で十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ、混乱に陥った。数日で宦官勢力は敗れた。しかし、その際に陳留王は少帝とともに張譲・段珪によって、雒陽(洛陽)から連れ去られた。間もなく盧植らに保護され、帰還する事ができた。その後、朝廷の実権は、混乱に乗じて都へ入った董卓によって握られた。9月、少帝が廃位され弘農王になると、代わって陳留王が皇帝に擁立された。初平元年(190年)春正月、董卓の専横に反発した袁紹ら各地の刺史や太守が兵を起こすと、朝廷は翌月に遷都を決め、献帝を長安へ移した。同3年(192年)夏4月、献帝の病気回復を祝い、未央殿で大規模な集会が行われた。そこで董卓は腹心の呂布に暗殺された。その後、王允が朝廷の政治を取り仕切った。ところが、一月余りで長安は董卓残党の攻撃を受けて陥落し、政治の実権が李傕や郭汜らに奪われたため、元の木阿弥となった。この頃、反董卓の兵を挙げた諸侯らが各地に戻って割拠したため、後漢王朝は内乱状態に陥った。興平元年(194年)春正月、献帝は元服した。2月、亡き生母に霊懐皇后の称号を贈り、文昭陵に改葬した。翌年2月、李傕と郭汜の内紛が起こり、献帝はその権力闘争に巻き込まれた。建安元年(196年)秋7月、楊奉・楊彪・韓暹・張楊・董承らに擁され洛陽へ帰還した。8月、曹操の庇護を受けて許に遷都した。これ以降、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかけるようになった。また、曹操は対外的には漢室の庇護者として振舞う一方で、献帝の周辺から馴染みの者を排除し、自らの息のかかった者を配すようにもなった。このような状況に憂慮した献帝は、曹操が謁見した時に「朕を大事に思うならよく補佐してほしい。そうでないなら情けを掛けて退位させよ」と、忠誠か譲位のどちらかにするようちらつかせた。このとき曹操は恐懼のあまり冷や汗をかいたため、以降宮中への参内を控えるようになったという。196年に曹操の庇護を受けてから、ようやく献帝の王権は安定をみたが、同時に王朝での実権を曹操に掌握された。曹操の身分は丞相・魏公・魏王と地位も上がっていった。これにより後漢は献帝在位中に、事実上の曹操王朝といえる状態に変質してしまった。建安19年(214年)には献帝の皇后伏氏が殺害され、献帝は曹操の娘であった曹節を皇后とする事を余儀なくされた。建安25年(220年)、曹操が死去し、子の曹丕が魏王を襲位した。曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で、同年の内に献帝は皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。この時に用いられた譲位の形式は禅譲と呼ばれ、後世において王朝交代が行われる時の手本となった。皇后である曹節は、漢室への忠義として皇后の玉璽を返還する事を幾度も拒み続けたが「とは言え、私があくまで拒めば、兄は陛下や私に容赦しないでしょう」と嘆息して、使者を激しく詰り「天に祝福されないのか」と嘆き、玉璽を放り投げ涙を流した。その場に居た者は皆顔を上げられなかったといわれる。劉協は曹丕(魏の文帝)から山陽公に封じられ、皇帝という身分は失っても皇帝だけが使える一人称「朕」を使う事を許されるなど、様々な面で厚遇を受けた。また、劉氏の皇子で王に封じられていた者は、皆降格して列侯となった。益州に逃れて曹操への抵抗を続けていた劉備は、劉氏の末裔であると称し漢中王を名乗っていたが、献帝が殺されたという誤報が伝えられると、漢室の後継者として皇帝を称した上で(蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈った。また、揚州を中心に勢力を保っていた孫権も呉王となり、大陸が魏・呉・蜀とで三分される三国時代に突入した。その後、劉協は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した。魏は孝献皇帝と諡した。劉協の太子は父に先立って死んでおり、劉協の孫の劉康が青龍2年(234年)に祖父の跡を継いで山陽公となった。魏より禅譲を受けた西晋の時代になっても山陽公はそのまま存続を許された。劉康は太康6年(285年)に死去し、子の劉瑾が跡を継いだ。劉瑾は太康10年(289年)に死去し、子の劉秋が跡を継いだ。永嘉の乱の真っ最中の永嘉3年(309年)、劉秋は匈奴系の漢趙国(前趙・劉趙)の将軍である汲桑の軍によって家族共々殺害され、爵位は断絶した。こうして後漢王朝の嫡流は途絶えた。後に東晋の時代になって、山陽公の末裔を捜索する詔勅が出されている。真偽は不明ながら、4世紀から6世紀にかけて日本列島に渡来した渡来人の中には、献帝の子孫を称するものが多く見られる(東漢氏参照)。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。