千葉 栄次郎(ちば えいじろう、天保4年(1833年) - 文久2年1月12日(1862年2月10日))は、幕末の剣客。栄次郎は通称で、諱は成之。北辰一刀流を開いた千葉周作の次男で後継者。当代の名人達人と呼ばれる剣術家相手に高い勝率を誇った名剣士であったが、30歳の若さで没した。幼少時から父千葉周作(北辰一刀流玄武館)に学ぶ。若くして奥義を極め「千葉の小天狗」と呼ばれ、18-9歳で早くも名人と噂されるほどになった。父周作の代稽古として水戸藩の藩校・弘道館へ剣術を指南しに行った際、竹刀を頭上で回転させたり、股にくぐらせ、上空へ投げるなど曲芸的な技で相手を翻弄して打ち負かした。この行為に水戸藩藩士たちが激怒し、陳謝することとなった。このことについて堀正平は『大日本剣道史』で、栄次郎を「曲遣いの元祖」と批判している。一方、栄次郎と試合をしたことがある武藤為吉は、その様な遣われ方をする方が未熟であると、栄次郎を擁護している。嘉永6年(1853年)5月、周作とは別に水戸藩に出仕し小十人組から馬廻組を経て、文久2年(1862年)1月11日、大番頭に昇進するも、翌日の1月12日、30歳の若さで没した。高弟の下江秀太郎は19歳で玄武館塾頭となり、明治維新後は警視庁撃剣世話掛を務めた。長男の千葉周之介(之胤)は明治16年(1883年)、山岡鉄舟と井上八郎の後見で東京府神田錦町に玄武館を再興し、警視庁撃剣世話掛を務めた。
出典:wikipedia
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