ビゼンニシキは日本の競走馬。1984年の中央競馬のクラシック戦線をシンボリルドルフとともにリードした。ビゼンニシキを生産した青森県の明成牧場は成宮明光調教師が運営する牧場で、その母馬も成宮調教師の厩舎に所属していた馬である。1980年に、馬産地は伝染性の子宮炎に見舞われて例年よりも種付けが遅くなった。そのため、1981年生まれの世代は軒並みデビューが遅れ、1983年の3歳戦が始まっても、素質馬の登場はあとになると目されていた。そうした中で早くから活躍したのが関東のサクラトウコウとハーディービジョン、関西のロングハヤブサ(最優秀3歳牡馬)で、日本中央競馬会の広報誌『優駿』で行われる「フリーハンデ」ではこの3頭が「3歳3強」と評された。3戦3勝のシンボリルドルフに対しては、重賞出走歴がないにもかかわらず、勝ち方が期待できるとして3強に次ぐ評価を与えるものと、確実に勝てる「楽なレース」を選んでいるとしてそこまでの高評価をしないものがあった。ビゼンニシキは3歳秋にデビューして3連勝した。『競馬ブック』誌上で発表される「全日本フリーハンデ」では、ビゼンニシキはようやく現れた「大物」としてシンボリルドルフよりも1kg高く評価した。ただし距離適性には壁があるとして、翌年の日本ダービーは難しいだろうとも評されている。一方、「フリーハンデ」ではシンボリルドリフと同等とみる声もあったが、シンボリルドルフより1kg低い評価を与えられている。この年に同じ評価を受けたものには、トーアファルコン、ヤマノスキー、マーサレッド(最優秀3歳牝馬)、マリキータ、スイートソフィアがいた。4歳になると、ビゼンニシキは2月中旬から3週おきに登場、春のクラシック戦線として行われるすべての重賞に出走し、そのうち共同通信杯4歳ステークス、スプリングステークス、NHK杯に勝った。スプリングステークスではサクラトウコウ相手に意表をつく逃げ切り勝ち、NHK杯は楽勝だった。弥生賞と皐月賞ではシンボリルドルフに敗れて2着に終わったが、そのうち皐月賞は勝ったシンボリルドルフに体当たりされるという不利があった。この不利については、「全日本フリーハンデ」上で、評者の山野浩一は「外国の競馬なら着順変更になっているケース」としながらも、それがなくてもシンボリルドルフには勝てなかっただろうとしている。なお、日本中央競馬会はこのレース後、降着制度の導入の検討を始めたことを明らかにした。日本ダービーでは大敗し、ビゼンニシキに対しては距離克服に課題があるという見方が再びでた。この年から短距離路線の整備が行われたことから、ビゼンニシキは秋は長距離の菊花賞ではなく、短距離のスワンステークスへ挑んだ。しかしそのレース中に故障を発生して引退に追い込まれた。シンボリルドルフがこの年、史上初の無敗での三冠制覇を果たして日本競馬史上で図抜けた競走馬と評価され、さらにジャパンカップでも好走して世界的に高評価を受けたことで、ビゼンニシキにも高い評価が与えられることになった。日本ダービーまではシンボリルドルフ以外には負けておらず、「一方的に負けてばかりなので、はたして本当にライバルといえるかどうかは疑問だが」シンボリルドルフのライバルであるとも評された。この年のフリーハンデでのビゼンニシキの評価は60kgで、同世代では単独2位の値だった。「全日本フリーハンデ」は63kgに評価し、例年であればクラシック競走の勝馬と同等以上と位置づけた。競走馬を引退後、シンジケート・ビゼンニシキ会が結成され、1985年より北海道浦河郡浦河町の浦河スタリオンセンターにて種牡馬として繋養された。初年度の種付け料は150万円と発表されている 。父馬のダンディルート、母の父ミンスキーともに種牡馬として成功しながら早死しており、ビゼンニシキにはダンディルートの後継種牡馬として期待が寄せられた。1年目の49頭を皮切りに、例年50頭以上の繁殖牝馬を集めた。特に2世代目となる1987年生まれの産駒33頭の中からは、ダイタクヘリオス、ハシノケンシロウ、パッシングルート、ビゼンツカサと4頭の重賞勝ち馬が出て、世代別の種牡馬ランキングで日本4位となった。特に1991年には産駒が年間87勝をあげて日本の年別種牡馬ランキングで14位となった。このほか、1990年から2000年まで勝利数はコンスタントに80勝前後をあげ、1989年から1998年のあいだランキング上位100位に入っていた。晩年は九州の種牡馬場に移り、
出典:wikipedia
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