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サザンオールスターズ

サザンオールスターズ("Southern All Stars")は、日本のロックバンド。所属芸能事務所はアミューズ。所属レーベルはSPEEDSTAR RECORDS内のタイシタレーベル。略称は「サザン」「SAS」。公式ファンクラブ名は「サザンオールスターズ応援団」。公式サイト名は「sas-fan.net」("サスファンネット")。メンバーは青山学院大学の学生らで結成され1974年から断続的に活動が始まり、1978年に「勝手にシンドバッド」でデビュー。1979年に「いとしのエリー」が大ヒットし、1980年代では「チャコの海岸物語」「ミス・ブランニュー・デイ」「Bye Bye My Love (U are the one)」がヒット。1990年代になると「涙のキッス」「エロティカ・セブン」「あなただけを 〜Summer Heartbreak〜」「愛の言霊 〜Spiritual Message〜」の4作品がミリオンセラーを記録。2000年代には「TSUNAMI」がダブルミリオンセラーかつシングルCD売上歴代1位を記録。他に「涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜」や「I AM YOUR SINGER」などもヒットし、2010年代では、「ピースとハイライト」がオリコンチャートで1位獲得のため、1980年代から2010年代まで4つの年代でチャート1位という記録を持ち、幅広い世代に支持されているロックバンドである。大半の曲はバンドのリーダーである桑田佳祐が作詞・作曲・歌唱を担当している。各メンバーのソロ活動については個々のページ参照。1974年、青山学院大学に入学した桑田佳祐と関口和之は、音楽サークル「AFT」(青山フォークサークルたびだち)で知り合い意気投合。同年夏にAFTのメンバーらとロックバンド「温泉あんまももひきバンド」を結成する。翌1975年には青山学院大学に大森隆志と原由子が入学し、同じくAFTに入部。「温泉あんまももひきバンド」を知った原は桑田を危険人物だと思い、他のAFTメンバーらとフォークグループを組んでいた。初夏に「温泉あんまももひきバンド」は「ピストン桑田とシリンダーズ」と改名、この頃から大森は桑田に興味を持つようになり、バンドの練習現場にしばしば現れるようになったという。同年AFTの夏合宿の際にロック派とフォーク派が対立し、AFTは分裂する。桑田らロック派は新たなサークル「Better Days」を立ち上げるが、同年秋に「ピストン桑田とシリンダーズ」が解散する。まもなく一度はフォーク派に行った原がBetter Daysに移り、同年10月に桑田と原はバンドを結成する。このバンドは「青学ドミノス」「脳卒中」「桑田佳祐とヒッチコック劇場」など、メンバー構成が変わるたびに名前を変えていた。ちなみにこの時期の一部の活動は、桑田が宮治淳一らとともに地元で立ち上げた「湘南ロックンロールセンター」というサークルが企画したコンサートで行われていた。「青学ドミノス」のライブもここで行われていたという。1976年、桑田の望んでいたパーマネントに近いメンバーが揃ったものの、この時桑田は新たなバンド名を思い付けずにいた。4月11日にコンサートが行われるのに伴い、宮治は桑田にバンド名を早く決めるよう催促していたが、バンド名が決定しないままコンサートのポスター製作が進行されていった。最終的に宮治がバンド名の考案役となり、ニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』をBGMにポスターを製作中、一息入れるために風呂でラジオを聴いていた際にファニア・オールスターズの来日コンサートの宣伝が流れ、風呂から上がった際につけっぱなしのレコードからニール・ヤングの「サザン・マン」が流れていて、これを組み合わせた際の響きが良い事から、「サザンオールスターズ」という名前を考え出し、バンド名を「桑田佳祐&サザンオールスターズ」とした。宮治によるとこのバンド名を桑田本人に伝えたのはライブ当日だという。桑田が望んでいたパーマネントな「桑田佳祐&サザンオールスターズ」は長く続かず、再びメンバーが頻繁に入れ替わる事態に陥る。後の音楽評論家萩原健太がギタリストとして参加していた時期もあったが、翌1977年初頭に一旦活動を停止する。しかし、大森が桑田のバンドの復活をもくろみ、昔のバンド仲間で大森を慕い上京していた松田弘を桑田に紹介したり、バイト先で知り合ったセミプロの野沢秀行をバンドに加入させようとしたり(ただし、野沢はパーマネントなバンドでないと参加しないとして断った)するなど暗躍した。1977年3月に「サザンオールスターズ」として再編された。この時のメンバーは桑田、大森、原、松田、天野和平(後にトランザム)。なお、原の著書によれば、この頃に一度だけ「パロディハウス」という名前に変えようとしたが、「ダサい」との理由で即サザンオールスターズに戻したという。新生サザンはヤマハ主催の音楽コンテスト「EastWest」に参加するが、予選のテープ審査の時期に天野が脱退し、入れ替わりで関口が加入。本選では入賞を果たし、桑田がベストボーカル賞を獲得した。この直後に野沢が大森の勧誘を受ける形でなしくずし的に加入。レコード会社は早々にビクターに決まったものの、事務所がなかなか決まらなかった。ビクターのディレクターの高垣健が「女呼んでブギ」のカセット(前述のEastWest '77で披露した曲であり、当時の代表曲的存在)を持って事務所周りをしていた際、当時新興事務所のアミューズの社長大里洋吉が興味を持ち、練習スタジオを訪問する。この際に「勝手にシンドバッド」を披露し、大里が「この男をテレビに出したら面白い」と考えたことから契約が決まる。アミューズは原田真二の個人事務所的存在として1977年に設立された会社だったが、大里が解散直前のキャンディーズのプロデュースに専念し事務所の仕事から離れていた時期に、ロック志向を強めていた原田がテレビ的な売り出し方を嫌うようになり、大里が事務所の仕事に復帰した直後に移籍してしまったという。サザンとの出会いはこの事件の2週間後であり、もし原田が移籍してなかったらサザンオールスターズをやる余裕はなかったという。また、桑田と高垣は事務所周り中に宇崎竜童にあいさつをしており、その際にデモテープを渡したが、宇崎は「言葉のわからないロックは嫌いだ」と言い突き返した。しかし、サザンがヒット曲を量産するようになると、宇崎は自身の言動を後悔していたという。この経緯が縁で原に「うさぎの唄」を提供している。デビューにむけて着々と準備が進めている中、メンバー全員が他のレコード会社の契約書にサインしてしまうという事件があったが、ビクター関係者が出向いて話を収めた。この時期はまだ学生バンドの思い出作り的な意識があったという。1978年6月25日にシングル「勝手にシンドバッド」でビクター音楽産業(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)からデビュー。発売当初は売り上げは低迷した(チャート100位にも入らなかった)。同年8月にコミックバンドのザ・ハンダースが「思い出の渚」でレコードデビューしたのを受けて、事務所はコミックバンド的な路線を取る。8月末にサザンは人気音楽番組『ザ・ベストテンのスポットライトのコーナーで初出演(新宿ロフトから中継)。この際に桑田の「目立ちたがり屋の芸人です」発言(この発言はのちに「台本によるもの」と明かしている)が飛び出し、この発言で初期サザンの色が決定づけられることになった。青学の後輩やあいざき進也ファンクラブのメンバーを集めてどんちゃん騒ぎの中で「勝手にシンドバッド」を熱唱。「勝手にシンドバッド」は徐々にチャートが上がり売り上げを伸ばしていった。同年11月9日に「勝手にシンドバッド」が『ザ・ベストテン』10位にランキングされスタジオに登場。1979年3月25日、3rdシングル「いとしのエリー」、同年4月5日、2ndアルバム『10ナンバーズ・からっと』を発表。特に「いとしのエリー」は、徐々にヒットしロングセラー化。1980年には「テレビなどに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」「5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」FIVE ROCK SHOWと銘打った計画を開始。しかし、メディアへの露出が大幅に減ったのが影響し「ヒット」と呼ぶには至らず、アルバムは売れるのにシングルは売れない状況に陥る。FIVE ROCK SHOW終了後再びテレビ番組に出演するようになったが、この傾向は変わらず、1981年発売の12thシングル「Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)」はサザン史上シングル中ワーストの売り上げを記録している。その後1982年に「チャコの海岸物語」がヒットし、以降順調にバンド活動を進める。1985年には佐野元春から声がかかり「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」にも出演した。同年サザンとしては初の2枚組オリジナルアルバム『KAMAKURA』を発売した。同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動も一旦活動を休止。桑田はKUWATA BANDとしての活動の後に個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。1988年6月25日、デビュー10周年の記念となる日に24thシングル「みんなのうた」を発売し、サザンとしての活動を本格的に再開した。加えてこのシングルから小林武史がアレンジ、プロデュース業を共に行うようになっている。前年に桑田はソロ活動で小林と共同プロデュースを行い、「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と語っている。また、KUWATA BANDのアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』で作詞を手掛けたTommy Snyderもサザンに合流した。この時期から楽曲製作に関して「桑田(+アレンジャー)+スタジオ・ミュージシャン+プログラマー・マニピュレーター+レコーディング・エンジニア」という図式が見られるようになり、桑田以外のメンバーが干渉する割合が減ったと言われている。小林と桑田はさらに原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER』のプロデュースも担当し、桑田はソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係巻き込んでいきます!」と小林を絶賛していた。1991年には関口が病気療養で休養に入るが、1992年7月21日に30thシングル「シュラバ★ラ★バンバ」、31stシングル「涙のキッス」を2枚同時発売し、サザン、そしてオリコン初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。「涙のキッス」はTBS系ドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌に起用され大ヒット、サザンでは最高記録となる7週連続オリコン首位を獲得するなどサザン初のシングルでのミリオンセラーを突破した。この年には中国・北京で公演を行い話題となる。1993年には32ndシングル「エロティカ・セブン」がフジテレビ系ドラマ「悪魔のKISS」の主題歌に起用され再びミリオンを超える大ヒットを記録。そんな中1994年には桑田がソロ活動を再開し、サザンの活動は約1年間休止となった。小林武史がアルバム『世に万葉の花が咲くなり』、34thシングル「クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)」を最後にサザン(桑田ソロ含め)との共同作業から離れる。このはっきりした理由は明らかにされてはいないが、桑田はアレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価し、バンドであるはずのサザンのメンバーを差し置いて小林に頼りすぎてしまうという意味で「(小林は)危ないヤツと分かった」という風に語っていた。その後この小林との縁で桑田佳祐&Mr.Children名義でのチャリティー活動や、小林と桜井和寿(Mr.Children)が中心となって活動するap bank fesへの出演など作品面以外での交友が続いている。1995年に関口が長期の休養から復帰し、5月22日に35thシングル「マンピーのG★SPOT」で活動を再開。これ以降プロデュース名義は主にサザンオールスターズと表記されるようになった。直後に発売された36thシングル「あなただけを 〜Summer Heartbreak〜」はフジテレビの「月9」枠ドラマ「いつかまた逢える」の主題歌として起用されミリオンセラーとなる。次の37thシングル「愛の言霊 〜Spiritual Message」でもミリオンセラーとなり、アルバム『Young Love』は過去最高のアルバム売り上げを記録した。しかし1997年あたりからライト層が抱えるイメージである「夏」「爽やか」などの売れ線系路線の曲とは程遠いハードロック、プログレなどを意識した曲を多くリリースし、同年の年越しライブではマニアックな楽曲が中心となり、ライトファン離れが急激に加速していった。1998年にはベスト・アルバムリリースブームの中、ベスト・アルバム『海のYeah!!』を発売し、大ヒットを記録した。しかしほぼ同時に発売したオリジナルアルバム『さくら』は暗い作風や上記のハードロック、プログレなどを意識した作品であったため、過去のアルバム3作連続で記録したミリオンを僅かに下回る結果となった。1999年には初のドームツアーを行い人気の健在振りを示したが、43rdシングル「イエローマン 〜星の王子様〜」は累計で10万枚を(オリジナル盤)下回る結果となった。1999年9月26日・27日、ファンクラブシークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」を行う。デビュー以来初めて本格的にライブハウスで行われ、初期のヒット曲・アルバム収録曲が多く披露され、往年のサザンファンを喜ばせた。また、アンコールのオープニングでは桑田が観客に「一緒に歌ってちょうだい」と呼びかけ、観客と共にアコースティックギターの弾き語りで国歌「君が代」が斉唱された。翌2000年1月26日に44thシングル「TSUNAMI」を発売。サザンのシングルでは久々となった切ないラブバラードのこの曲は、当時大人気だったTBS系バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとなり大ヒットした(再発盤のシングルも含め293万枚を売り上げ、オリコン歴代シングルランキングで3位に、シングルCDとしては現在1位にランクインされている)。かねて何度も逃した日本レコード大賞もこの年に獲得した。今作を機にサザンは長らく続いたセールス低迷から脱け出し、続く45thシングル「HOTEL PACIFIC」もヒットし、夏には桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市の地元住民の署名運動の結果、2日間の野外ライブ『茅ヶ崎ライブ 〜あなただけの茅ヶ崎〜』を行った。46thシングル「この青い空、みどり 〜BLUE IN GREEN〜」とベストアルバム『バラッド3 〜the album of LOVE〜』が発売された直後に大森が休養を発表し、翌2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退した。その前後から桑田らは再びソロ活動を開始。桑田はシングル「波乗りジョニー」「白い恋人達」がそれぞれミリオンセラーを達成した。2003年6月25日にデビューから25周年を迎え、それを記念してデビューシングルの復刻盤CD「勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス」をリリース。同作は1週間で約22万枚を売り上げ発売から25年のブランクを置いてオリコンウィークリーチャートで1位を記録。また同日にFMラジオ局のいくつかが24時間サザン特集を実施した。7月23日、47thシングル「涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜」をリリースし活動再開するとともに、5人での活動が本格的に始まる。直後には大規模な野外・スタジアムツアーを行い復活をアピールした。2005年には『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバム『キラーストリート』を発売、2006年にはTHE 夢人島Fes.を開催しサザンオールスターズとしてもプロモーションのため精力的に活動したが、2007年4月には桑田佳祐のソロ活動再開に伴い再び休止することとなった。2008年、30周年に伴う53rdシングル「I AM YOUR SINGER」の発売やライブなどの活動・プロモーションの発表と同時に、2009年以降メンバー個々の自由な発想による音楽活動を展開するべくサザンオールスターズとしての活動を無期限休止にすることも発表した(2006年のTHE 夢人島 Fes.を最後に実質的にサザンとしての活動は行われていなかったものの、この間を活動休止期間と定めていない)。期限を設けない活動休止は、原の出産・KUWATA BANDの活動などがあった1985年 - 1986年(活動休止は1988年夏まで)以来2回目のことである。この活動休止については、発表の当日にNHKの『おはよう日本』がこの活動休止についてを報じた他、民放各局で、報道や特集が大々的になされた。桑田自身は『活動休止の理由はより新しいものをつくるための充電期間』としている。また、『(キラーストリートで)現状でのサザンでできることの今のところほぼすべてをやりつくした』『今のままでも活動を続けようと思えばできるが、それではサザンという看板にぶらさがっているだけで、甘えているだけになってしまう』とも語り、『(サザンの)解散は絶対にない』と断言している。2013年6月25日、デビュー35周年を迎えることを機として活動再開を発表。同年8月7日に54thシングル「ピースとハイライト」をリリースし、8月10日から全国コンサート・ツアーを開始することとなった。また、活動再開については当日まで伏せられていた。2014年9月10日55thのシングル「東京VICTORY」リリース。12月には年越しライブを行う。2015年3月31日『キラーストリート』以来約10年振りとなるアルバム『葡萄』を発売。4月から全国ツアー「おいしい葡萄の旅」スタート。またアルバムにおいても、今回の「葡萄」がオリコン首位達成により1980年代、1990年代、2000年代、2010年代の4世代において首位達成となった。この頃は世相を風刺する曲をシングルにする傾向があったため、ライトファンやファンでない者からは少なからず賛否があった。なお、桑田がこうした曲を発表するのは別段特別な事ではない。楽曲は一般的には夏をイメージしたロック色の強いものからバラードなどが知られているが、他にもヒップホップ・民族音楽・郷土音楽から歌謡曲・テクノ・デジタルロック・サイケデリック・ロック・ハナモゲラまで幅広い要素を取り入れた楽曲があり、題材は愛・セックス・郷土愛・ユーモア・応援歌・反戦・社会風刺など多岐にわたり、こうした様々な要素を意欲的に取り入れている。桑田はメロディやサウンドを鳴らしたいという動機で作曲・演奏を始めたため、主に“曲先”で楽曲を制作している。そのため、初期の頃は「歌詞の意味はどうでもいい」と捉え「料理でいうお皿のようなもの」という感覚だったと述べていた。第1次ソロ活動以降はサポートミュージシャンの小林武史・小倉博和らといった桑田曰く「詞の事をとても気にする人達」の影響で洗練されたものが多くなっていった。1990年代からは仏教用語や熟語が少しずつ登場するようになり、2010年代からは外国語を意識的に減らしていくようになり日本語の歌詞を重視して書かれることが多くなった。桑田が制作した楽曲の歌詞には前述の理由からメロディや符割りを優先する故に、楽曲によっては歌詞に古語・べらんめえ口調・関西弁・外国語が使われることもあり、そのため文法として正しくないものも存在し、スタッフが訂正を促すこともあるが、桑田の意向で大抵はそのまま残されている。歌詞はほとんど想像で書くこともあれば、楽曲のテーマに関係する人物あるいはそれに詳しい周囲の人物やスタッフへの取材をもとに書くこともある。楽曲によっては歌詞の中で桑田自身と異なるペルソナが設定されていることも多い。サザンの大半の楽曲のレコーディング形式としてはまず桑田が曲やポイントとなる言葉の一部分を作り、スタジオでメンバー・サポートミュージシャン・スタッフ・エンジニアなどにそれを伝え、全員がアイディアを出し合いながらイメージを膨らませ仮歌やオケを録音する。それと並行して桑田が作詞の作業に取り掛かり、一通り作詞して歌入れを始める。これ以降アレンジなどの細かな修正を繰り返して楽曲が完成するというものである。近年ではライブなどで歌唱することを想定して制作したものも多くなった。過去には「MARIKO」のように制作したもののライブでの再現ができなかった楽曲も存在する。サザンの楽曲は前述のとおり大半を桑田が制作・歌唱しているが、野沢を除き他のメンバーも一部の楽曲を制作・歌唱している。なお、メンバー全員で制作した曲は「ブルースへようこそ」「シャッポ」、個々のメンバー同士の共作は「チャイナムーンとビーフン娘」「人生の散歩道」のみである。桑田はサザンは5人だけではなく、スタッフを含めた総力戦であると述べている。桑田は常に自身の生業を「芸能」「ポップシンガー」「大衆音楽」と表現しており、自身が「ロック」「芸術」といって振る舞うことには基本的に否定的であることを述べており、これについては「30代の頃まではザ・ビートルズやエリック・クラプトンの真似をして頑張ればいつか外人みたいになれると本気で思っていた」「日本人のロックとは、洋楽に忠誠を誓った歌謡曲なんだ。英語でロックになるが、日本語では歌謡曲だ、英語圏で通じないものはロックと思わない」「今は、自分はロックミュージックをやっているというよりも、歌謡曲をやっていると思ったほうがすごくしっくりくる」といった価値観の変遷があったことも言及している。また、サザンの音楽について洋食屋のメニューにたとえ「主食にも洋食にも伝統芸能にもなり得ない」としており、エロティックな楽曲・パフォーマンスが多いことを理由に自らを「下種の極み」と述べることもある。桑田は自身について「男っぷりや人間性、社会性は他のミュージシャンに負けているかもしれない」としたうえで、これだけは譲れない自身のアイデンティティとして音楽が存在することを述べている。桑田は「楽曲というのはその時々の気分を反映したもの」といった持論を述べている。原は桑田が制作する一部の楽曲・パフォーマンスが物議を醸したりすることについて「『その時は一緒に怒られましょうね』という気持ちです」と述べている。歌謡曲をベースにした楽曲が制作されることも多く、桑田の出身地茅ヶ崎をはじめとして、鎌倉・横浜 ・京都・下田などを舞台にした楽曲も多い。桑田がこうした楽曲を制作するようになったことについてはハナ肇とクレイジー・キャッツ(植木等)・ザ・ピーナッツ・内山田洋とクール・ファイブ(前川清)・加山雄三・吉田拓郎・尾崎紀世彦・辺見マリ・平浩二・平山みき・欧陽菲菲・夏木マリなどの楽曲をテレビやレコードなどで見たり聴いたりしていたことが影響している。2000年代以降の桑田の作品ではこうした傾向の楽曲がこれまで以上に増えていくようになった。前述の作詞法もあり「JAPPANEGGAE(ジャパネゲエ)」「CRY 哀 CRY」「通りゃんせ」などのようなハードロック調のメロディに古語を乗せた楽曲も存在する。齋藤孝は桑田の作風については「日本語の可能性を最大限に広げている」と評しており、桑田がたびたび行う当て字(二重読み)についても「こうした表現は江戸や明治の時代によく見られる表現なんですね(中略)ひらがなは私たちの身体にスッと入っているもの、漢字は理知的で、頭のほうに入って来るものですのでこうして表現をする事によって、頭と身体の両方から掴む効果も生んでいると思います」と評価している。また、文語体と口語体の混在も桑田の歌詞の大きな特色であるとしている。桑田自身も古語・べらんめえ口調・関西弁などを取り入れることについては長唄や落語などの語感へ親しみがある事が影響していると述べ、「ロックだって常套句ばかりじゃつまらない」としている。亀田誠治は1990年代からの桑田の作風を「“純和風“になっていった」と評している。2010年代以降徐々に外国語を意識的に減らしていくようになり、日本語を重視して歌詞を書くことが多くなったことについて桑田はAct Against AIDSのステージや自身が出演した「桑田佳祐の音楽寅さん」などで幅広いジャンルの楽曲をカバーした事や、後者の企画で「声に出して歌いたい日本文学 」を制作したことも影響しており、「俄かに知っている英語フレーズに逃げるのをやめた」「日本人として、日本の皆さんに楽しんでもらえる、日本語としてのポップスを作ろうと思った」といった発言をしている。楽曲だけでなくライブの演出やグッズ・DVDなどにも和の要素を取り入れることも多い。元メガデスのマーティ・フリードマンは「桑田さんの曲で面白いのは、音色とか解釈は洋楽の影響が大きいのに、メロディとかコード進行とか、音楽の理論的には歌謡曲満開って感じがするところ(中略)桑田さんは洋楽と邦楽を平等にブレンドしている。すごくスムーズな和洋折衷だと思います」と評している。亀田誠治、マキタスポーツなども同様の評価をしている。桑田も自身の作風について和風だしとビフテキに例える発言をしている。また、「いくら洋楽に影響を受けても日本人のDNAとして息づいてきた和音階のお囃子に無条件にノッてしまう楽しさに抗うことは出来ない」とも述べている。エロティックな曲を制作する理由については「音楽って、やっぱりセックスがないとダメだと思うのね。(中略)そういう事の方が素直に歌詞にしやすいわけ」と述べている。齋藤孝は桑田のエロティックな表現について「日本人が明らかに性を謳歌していた江戸時代の文学作品に通じるものがある」と評している。近年は応援歌などを制作する頻度も増えており、「君こそスターだ」「東京VICTORY」などのようにオリンピックなどのようなスポーツの大会を意識したものや「アロエ」のような桑田曰く「元気のないツレを励ましているイメージの底抜けにお気軽な曲」も存在する。反戦や風刺については5thアルバム「NUDE MAN」から行われている。桑田は自身の立場について「僕には何か特定の主義もなければ思想もありませんし、右でも左でもリベラリストでもなけりゃ、聖人君子でも何でもない」と述べている。反戦歌については「戦争はなかなか無くならないことも、平和を訴えるうえでのある種の虚しさも、大人ですから薄々は気付いています。でも言うだけでも言わなきゃ夢が持てない。僕は夢のない世の中が一番怖いと思っています」と述べている。戦争に関しての価値観は父や祖母の影響があると述べている。また、桑田はかつて「平和」という言葉について「皮肉な言葉」と著書で述べていた頃もあったが、年齢を重ねたこともあって、近頃は平和という言葉が骨身に沁みてくるようになったと述べ、それ以降は時折日本及び世界の平和を祈る発言をするようになり、楽曲・演出にもそうした要素を取り入れるほどとなった。風刺をテーマにした楽曲については「光を描こうとすれば、どうしてもその対極にある忘れてはならないことも描かなければならない」「明るいだけの歌はあまり面白くない」といった持論と「僕だって自分の日常がありますから、全ての問題について毎日思い続けていられるわけじゃない(中略)僕は何かのデモや運動の先頭に立って旗を振りたいわけじゃない。ただ、それでもおかしいことはおかしいと思うものだし、それがきっかけで音楽が生まれたのなら、それを歌えない空気も、そこで歌えない自分も僕は嫌なんです」と述べた。また、風刺は人を過剰に傷つけるためのものではあってはならないとし、「たとえば直接的に『○×反対、○×反対』というのではなく、どこか粋でありたいし、○と×の間に様々なグラデーションがあると思います」と述べている。事実、桑田の風刺は世の中の風潮や時の政権の政策・体制への批判や従順な日本人に対する自戒だけではなく、曲によっては日本政府・国民などへのエールや、テロ・自然災害・戦争などの被害者・犠牲者およびそれらの周辺の関係者などに寄り添う側面も存在し、後ろ向きな事柄を描いた上で前向きな歌詞を書いたり、解釈を聞き手にゆだねるなど、趣向を凝らしている。なお、過去には「Mr.ブラック・ジャック 〜裸の王様〜」の四番などのように伏字にされるほどの過激なフレーズを入れた事があったが、2015年のインタビューでは「やっぱり流れが良くないと、尖った言葉ばっかりの羅列だと、やっぱりポップミュージックとしてはね。僕はあまり好きじゃないんですよね」といった、直接的ではないものの作詞法に関しての考えを改めたことを示唆される発言をしている。「メインストリームで風刺や反戦を歌うアーティストが少ない現代で寂しさや使命感を感じるか」といった質問に桑田は「全くありません。そこは人それぞれですから。若い頃は恋愛や遊びに大半の時間を割くし、何より今の若い人と僕らでは生活環境も情報量もまったく違うでしょうから」と答えている。反戦・風刺をテーマとした楽曲については前者はザ・ビートルズ(ジョン・レノン)・ボブ・ディランの楽曲、後者はそれらに加え、ハナ肇とクレイジー・キャッツが出演したコント番組『おとなの漫画』や牧伸二のウクレレ漫談に影響を受けた事を述べている。また、歌詞についてはテレビのニュース番組・ドキュメンタリー番組や「蛍」のように映画から影響を受けることもある。桑田へのインタビューを重ねてきた内田正樹は桑田の風刺について「おっさんのボヤきのようでありながら、一方で時事漫談のような切れ味を帯びている」「そもそも桑田佳祐はかつての立川談志やビートたけしらに通じる批評眼の持ち主である」と評価している。また、亀田誠治は「僕は桑田さんを千両役者だと思っています」「すべての問題をしっかりと自分の中で受け止めた上で、作品を世に出す時にはちゃんとエンターテイメントとしてアウトプットしている」「それができるのはJ-POP界でいまだかつて桑田さんだけだと思います」と評している。サイケデリック・ロック・ヒップホップなどは「愛の言霊 〜Spiritual Message〜」「PARADISE」のようにメッセージ性が込められたものや、「イエローマン 〜星の王子様〜」や「アロエ」のようにメッセージ性がなく完全なノリ・語感重視の言葉遊びなものもあり、でたらめ英語の仮歌から歌詞のテーマと関係のないフレーズを作りそれをタイトルにしたり、お遊びとしてセリフやラップを入れたりすることもある。楽曲や映像に異国情緒を取り入れることもあり、「ミスマッチの仕方が、多少定番とズレている方が面白い」といった持論が存在する。「LOVE KOREA」の韓国料理店、「チャイナムーンとビーフン娘」の横浜中華街、「The Track for the Japanese Typical Foods called “Karaage” & “Soba” 〜 キラーストリート (Reprise)」の「ホープ軒」「丸屋」のように飲食店・食べ物からインスピレーションを得られることもある。ハナモゲラに関しては藤村有弘やタモリの影響を少なからず受けたという。「ナチカサヌ恋歌」「平和の琉歌」などのような沖縄音楽を意識した楽曲も制作されているが、桑田は後年自身のラジオ「やさしい夜遊び」で「にわかで沖縄の真似をして曲を作ると大体間違ったものになる」といったそれらを制作した事への反省の弁ととれる発言をアミューズの後輩で沖縄県出身のBEGINの楽曲と比較したうえでしている。ライブではその時点でリリースした新曲から、初期の頃の楽曲・アルバム収録曲まで幅広く選曲がされており、年々演奏曲が増えていくようになり、現在では曲数はアンコールを含め30曲を超えることが多く、公演時間も長い場合で約3時間半に及ぶ。楽曲によっては世界観を表現するためにバックモニターに楽曲のテーマにちなんだ映像が投影されたりダンサーが登場したりすることがある。桑田はよく歌詞や段取りを間違えてしまうことがあり、それが全国放送されてしまうこともある。それが原因で2014年の年越しライブ「ひつじだよ! 全員集合!」のように大きな問題になった例もある。MCや楽曲のパフォーマンスなどではジョーク・自虐ネタ・時事ネタ・近況を交えてのトーク、会場のある地方にちなんだ演出や状況によっては小道具やコスプレを用いて観客を笑わせることがあるが、それらの度が過ぎたことが原因で2014年の年越しライブ「ひつじだよ! 全員集合!」のように大きな問題になった例もある。近年のライブではエンディングで桑田が観客やファンに対して感謝の念を述べるとともに「みんな死ぬなよ!」「頑張ろうな!」と呼びかけてステージを退場することが多くなった。楽曲だけでなくメンバーの人柄も評価されており、2014年にビクタースタジオを取材した『週刊文春』はサザンを「日本一のおもてなしバンド」と評している。ファンに対しての対応も評価されており、チーフマネージャーの話によると、サザンのメンバー全員はファンレターにはすべて目を通しており、返信ハガキが同封されたものは時間が許す限り返信を書いているという。10代から70代まで幅広い年齢層にファンが存在しているのが特徴であり、多くのファンにとってサザンは、幅広い音楽性、パフォーマンス、キャラクターを含め、“良質なエンタテインメント”として楽しみ、“青春の1ページ”として心に刻まれているといわれている。また、サザンの楽曲で励まされ、心の支えにしている者も多いのも特徴の一つである。『週刊文春』はサザンの楽曲が広い世代に受け入れられていることについて、「単に広い人気を誇るからだけではない。多くの問題を孕みながらも何とか前を向こうとする、そんな「日本の今」の気分が、どの曲にも凝縮されているからだ」と評している。アルバム『稲村ジェーン』は同名映画のサウンドトラックという性格上、収録されている楽曲により演奏者などのメンバーが異なる。このため、アルバムの名義は「サザンオールスターズアンドオールスターズ("SOUTHERN ALL STARS and ALL STARS")」とされている。ちなみに、個々の楽曲でこの名義が使われたのは「稲村ジェーン」「美しい砂のテーマ」「LOVE POTION NO.9」「東京サリーちゃん」の4曲のみで、残りの7曲はサザンオールスターズおよび「稲村オーケストラ」「原由子 & 稲村オーケストラ」のいずれかで表記されている。特に、多くのアルバムに収録されている「希望の轍」は「稲村オーケストラ」のものであり、『ミュージックステーション』(テレビ朝日)においても同名義で出演し、披露された。また、その他のユニットなどでは松田・野沢・大森を中心メンバーとする「S.A.S.Project」がオムニバスアルバム『SNOWBIRD HOTEL』に参加している他、関口のソロアルバム『World Hits!? of Southern All Stars』では「関口和之&砂山("SAZAN")オールスターズ」が結成された。なお、「年越しライブ」と呼ばれるカウントダウンライブは、横浜アリーナが所在する神奈川県の条例により18歳未満の入場が禁止となっている(12月31日公演のみ。かつては20歳以上の保護者同伴の場合だけ許可されていたが、2007年からの条例改正で入場が完全禁止となった)。※「勝手にシンドバッド」は、2003年に再発された売上枚数も含む。桑田佳祐も参照のこと。桑田の単独出演は、サザン名義の楽曲が使われたCMのみ掲載。その他各メンバーの出演番組などは、それぞれのページを参照。グループのソロ曲やカバー曲などは含まない。アルバムCMのために使用された曲など、サザン関連のCMで使用された楽曲は除く。※タイアップやテーマソングとして使用された順に掲載。同一楽曲の別時期に渡る仕様の場合、1曲として使用順に掲載する。2008年放送の『the波乗りレストラン』で使用された楽曲は、当該項目を参照。サザンの楽曲の中には、タイトルに表記がされていなくとも、シングルとアルバムでバージョンやテイクの異なる曲がいくつか存在する。また、シリーズものや、メドレー形式で構成される歌詞やテイクの異なった楽曲も多い。※シングルに収録されたライブテイク、再発によるリマスタリング、『キラーストリート』収録曲でアレンジの変更が無い楽曲は除く。

出典:wikipedia

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