永 六輔(えい ろくすけ、1933年4月10日 - 2016年7月7日)は、日本のラジオ番組パーソナリティ、タレント、随筆家。元放送作家、作詞家である。本名は永 孝雄(えい たかお)。晩年の所属事務所は「オフィス六丁目」だった。角刈り頭と細長い顔がトレードマーク。長女の永千絵は映画エッセイスト、次女の永麻理は元フジテレビアナウンサー(現在はフリー)、麻理の長男で孫の育乃介は俳優。藤本義一とは遠戚である。1933年、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を勤めていた永忠順(1900年 - 1991年)の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日本外国人17代目と自称。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた。東京都下谷区(現・台東区)の国民学校に通っていた1944年、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになり、そして学校をさぼって実家から近い国際劇場を本拠地にしていた松竹歌劇団のレビューを見続けたことがのちの放送作家やテレビ演出活動の原点になった。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学文学部を1952年に中退。以後、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティーとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、日本政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動、佐渡島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。ディズニーの日本語版製作のアルバイトをしていた関係で1956年には同社のアニメ映画『わんわん物語』でチワワのペドロの声を演じた。続けて『バンビ』『ダンボ』にも声優として出演している。1958年には、若手の文化人らと「若い日本の会」を結成し、安保闘争時に安保改正に反対した。当時、『光子の窓』の脚本を担当していたが、安保デモに参加して脚本を落としたために番組を降ろされている。1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退している。1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。2002年 - 2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永、矢崎泰久、小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。2008年6月、第45回ギャラクシー賞において、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞。音楽ではシャンソンが好きで、石井好子との学生時代からの交友関係もあった。その一方で、演歌はあまり好きでないが「好きな演歌もある」そうである。2009年に呂律が回らなくなったと『週刊女性』に報じられ、そのときは加齢と入れ歯のせいだとしていたが、2010年になってパーキンソン病と診断されてこれを公表し、投薬治療を受けていた。2010年9月30日には、前立腺癌とパーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHK総合で放送された。一時は引退も考えたと語る事もあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになっていた。永六輔に近いおすぎはパーキンソン病でなくバセドウ病の可能性もあるとラジオで語っている。パーキンソン病の影響で歩行困難になり、2006年に奄美大島で転倒して右足小指骨折し、半年間杖で歩行していた。さらに2011年11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いた。2012年1月17日に退院、リハビリは継続して行った。2013年、毎日芸術賞特別賞を受賞。2016年6月27日の放送を以って「六輔七転八倒九十分」が終了し、全レギュラー番組を降板した。2016年7月7日午後1時57分に、東京都内の自宅にて死去していたことが同月11日に発表された。。永の死の5日後に、大橋巨泉も82歳で死去している。医師によると「死因は肺炎とするが、老衰と言っていい状況」で穏やかな最期だったという。葬儀・告別式は実家の最尊寺で7月11日、近親者で行った。8月30日に青山葬儀所でお別れの会が行われ、同日に赤坂BLITZでファン参加型のお別れの会「ばらえてぃ 永六輔を送りまSHOW」が昼夜2回催された。1959年、作曲家の中村八大からの依頼がきっかけで作詞家として活動を始める。この年、「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。1959年 - 1966年にかけて中村八大とのコンビにより数々のヒット曲を飛ばし、特に1961年に坂本九が唄って大ヒットした「上を向いて歩こう」がアメリカ合衆国で『スキヤキ・ソング』とタイトルを変え『ビルボード』のウィークリーチャート(Hot100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てている。しかしラジオの活動に重きをおくようになった1967年以降は作詞活動から後退し、1969年以降は付き合いを除く作詞活動から撤退した。永が作詞家として全盛期を迎えたのは、日本のミュージックシーンに作詞・作曲から歌まで1人で手がけるシンガーソングライターが登場した時期でもあった。ビートルズが来日した1966年は、美輪明宏が「ヨイトマケの唄」を、さらに荒木一郎が「空に星があるように」を、自ら作詞・作曲し歌ってヒットさせた年でもある。作詞をやめた理由としては、「テレビに出れば何でも流行するのか」と怖くなったことがあげられる。また、永が多くの詞を提供した作曲家である中村八大といずみたくの2人は、同世代であり互いの曲を意識しあったが、共通の友人でもある永には複雑な思いがあった。特に板挟みのような状況ではなく作曲家2人は仲が良かったのだが、それだけに「友達でいることを優先」したかったことも、その理由のひとつだったと後に本人は述べている。それとともに、シンガーソングライターの出現により「自分が歌いたい歌を作詞すればよい」と思うようになったということもあげられるが、それはシンガーソングライターを否定するものではなく、きたやまおさむとは『土曜ワイド』にたびたびゲストとして招いたり、逆にNHK-FMの『きたやまおさむのレクチャー&ミュージック』に永がゲスト出演する(2010年12月10日・17日など)という仲である。永は1974年に野坂昭如・小沢昭一と中年御三家を結成して日本武道館でコンサートを行い、ビートルズ以来と言われるほど盛況であった(2003年に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。 これに関し間接的出典であるが、この際の記憶を2016年7月11日放送のいち・にの三太郎~赤坂月曜宵の口の中で、質問した子供が泣きそうになった逸話として、外山惠理アナウンサーが述べている。2016年2月4日には82歳で、『徹子の部屋』40周年記念ゲストとして81歳の大橋巨泉と共に出演した。パーキンソン病のため、リクライニングシートを斜めに倒した車椅子から身を起こせなかったが、ピンクのエイ(魚)のぬいぐるみを膝に乗せてトークを披露した。それまで構成作家として関わってきたラジオ番組だが、1959年放送開始の『昨日のつづき』にて初めて出演することとなる。この番組は、日本初のフリートークで進められる番組で、永六輔は番組開始後早い時期に喧嘩別れして大橋巨泉と交代した。1966年に『夢であいましょう』が終了すると活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年に『誰かとどこかで』がスタートする。それ以降は、ラジオに重きを置くようになっているが、TBSラジオ以外の関東地方のラジオ局では晩期は定時番組(レギュラー)での仕事をしていない。。「出演者は自分で名乗るべき」と永六輔に諭されていた外山惠理は、「ご自身(永六輔)は名乗らないで、いきなりトークに突入することもあった」と、2016年7月11日放送の『いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口』の中で述べている。朝日放送・中部日本放送・琉球放送で仕事をしたことがあるが、個人的付き合いに留まっている(朝日放送はアナウンサーの道上洋三との、中部日本放送はつボイノリオとの親しい縁から、TBSラジオでかつて放送されていた『土曜ワイド』は久米宏が初めてレギュラーを受け持った番組であり、久米は永のことを「拾ってくれた」「恩人」と言っている。しかしのちに永自身が語ったところによると、久米は永からかなりぞんざいに扱われたため、当時はかなり恨んでいたという。現在でも「永さんの前に立つと緊張する」と語っているが、恨みはもっておらず、『大往生』がベストセラーとなった1994年にはニュースステーションの年末特番に「ベストセラー作家」として永がゲスト出演しているほか、2010年1月2日には『久米宏 ラジオなんですけど』にゲスト出演している。舞台監督としても活躍していた時代があり、現在でも自らのトークショーや地方講演などではプロの舞台監督を雇わずに自分で進行をしていた。ただし、業界で唯一信頼を置いて舞台進行を任せる人物に勇村育世がおり、最近では永自らが構成・演出する舞台であるにもかかわらず、彼女を「舞台演出家」と他の出演者に紹介する程である。「彼女の言う事に僕は逆らった事がない」というのが口癖。 初めてテレビ出演したのが浅田飴、初めてスポンサーラジオ番組を持ったのが桃屋だが、つながりができた理由は自身の語るところによると「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」という。自身の信念とは正反対の文藝春秋で記事を書くこともあるが、これも「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」書けるとの事。しかし、文藝春秋で書いていることについて「あいつらに人質にとられているようなものですよ」と半ば自嘲気味に語っている。新潮社でも「江戸風俗・芸能に造詣が深い」との理由から長らく記事を書いていたが、親交のある灰谷健次郎が斎藤十一のやり方に抗議して絶縁した1997年以降疎遠となり、週刊金曜日主催の「ちょっと待った! 教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」に参加したことで同社の雑誌に批判されてからは完全に絶縁した。物柔らかく高めの声音が明仁天皇に似ていて、永自身も今上天皇の即位前から冗談の種にしている。NHKラジオ第1放送の番組『話芸・笑芸・当たり芸』において「我は高田文夫を深く認識いたします」とのセリフでものまねを披露したこともあった。その一方、永のものまねをした者もいる( →永七輔、小堺一機、タブレット純、大泉洋など)。自らを「男のおばさん」と標榜しており、ピーコなどと仲が良い。「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を! 市民連合」略称「天着連」)を主催する形で、天皇と日本の民族衣装である着物に対する敬意を持つことを表明している。中居正広と接点があり、バラエティ番組「SMAP×SMAP」の1コーナーだった中居のコント「永七輔のちょっといい話」のために、自前の衣装(和服)をプレゼントしたことがある。文化放送とニッポン放送には自身と政治思想・信条が違うとの理由から長らく出演していなかったという説があるが、両社が共同出資し設立したフジテレビの番組には出演していたことがある。しかし徐々に疎遠になり、次女の麻理がアナウンサーとして入社すると、「公私混同を避けるため」との理由から出演しなくなったが、実子がフリーになって長く経った2011年10月23日・30日放送の『ボクらの時代』に出演した。もっとも1982年6月12日、文化放送などで放送されていたさだまさしのセイ!ヤングに出演したことがある。また、2002年頃、文化放送制作のナイター中継にゲスト出演したことがあるが、これは同局で野球解説をしている豊田泰光がパーソナリティを務めた番組にゲスト出演したのがきっかけである。1994年8月25日、ニッポン放送『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』にゲスト出演(TBSラジオの『土曜ワイド』でも高田文夫の年賀状が読み上げられたことがある)。高田は若い頃に永六輔の『パック・イン・ミュージック』を熱心に聴いていた。その10年後、2004年7月15日のニッポン放送開局50周年特別番組に録音出演した。「他の局の人から見たニッポン放送」というコーナーの2人のゲストのうちの1人だった(もう1人のゲストは、元・文化放送アナウンサーの吉田照美)。ニッポン放送側からの度重なる出演依頼を断りきれなくなったから、と述べている。これには同コーナーのホスト役を務めた同局アナウンサー・上柳昌彦が、学生時代からの永のラジオ番組リスナーだったことが大きい。その後、2011年4月22日にもニッポン放送に出演した。読売テレビの『遠くへ行きたい』には、永のライフワークである旅番組であるために出演をしていて、番組開始時はレギュラー出演していたが、その後は不定期出演になった。さらに、1980年代後半には国鉄分割民営化に反対する新聞の意見広告に出たため、スポンサー(さらには分割民営化を推進した政府)との関係で出演しなかった時期もある。ただし、現在は出演回数は少なくなっているものの再び出演するようになっており、番組制作会社であるテレビマンユニオンとの関係も基本的には良好である。また、朝日放送に関しても同局でラジオパーソナリティを務める道上洋三と親交があり、道上が永の番組に出演し、永も『おはようパーソナリティ道上洋三です』が東京から放送された際に、ゲスト出演したことがある。この他にも『米朝よもやま噺』にも出演している。1963年10月改編で、MBSテレビは系列局放送網から供給されていた江戸笑芸番組『大正テレビ寄席』を打ち切って自社が企画段階から関わった吉本新喜劇の中継番組『サモン日曜お笑い劇場』に差し替えた(大正テレビ寄席打ち切り事件)。MBS社長高橋信三によると、その理由は「関西では江戸笑芸が受け入れられにくく、テレビ寄席の視聴率が低迷するのは予想できたことだった」のだが、永は「吉本興業とMBSが結託して江戸笑芸を否定しようとしている」と猛反発し、両社に対する攻撃を開始した。その後、MBSが当初は系列局放送網へ供給し、その後東京12チャンネルへ移動させた『芸能わらいえて 目で見る百年史』では永が司会に就任、『選抜高校野球中継』のレポーターも務めるなど関係が極度に悪化することは避けられたが、1980年代に入ると両者の関係は徐々に縮小し、永はMBS制作番組に出演しなくなっていった。『誰かとどこかで』では系列局放送網スポンサーの広告だけがMBSに流れるようになった。2011年9月6日、MBS、中部日本放送(CBC)、TBSは共同で開局60周年記念番組『御三家ラジオ』を制作、つボイノリオ、浜村淳とともに久しぶりとなるMBSラジオへの出演を果たす。しかし、この番組はあくまでもTBSが主導したものであり、これによって永とMBSの関係が完全修復した訳ではない。日本の文化において、生活文化として江戸時代の文化・風俗を再評価させたり、日本語の語彙や意味を説いたり、在野の芸人を世間に紹介したり、メートル法の日本のメートル法化に際し、絶滅の危機に瀕していた尺貫法を「尺貫法復権運動」によって、鯨尺を作ったから計量法違反で逮捕しに来いと警察を挑発し、尺貫法を再び世間に認知させ、尺貫法の例外的使用を日本国政府に認めさせたりして、左派リベラル派でありながら「愛国心は日本の保守主義の特権」というイメージを覆した。日本人の感覚では『常識』という考えが、同じ日本に住む在日外国人の人々にしてみれば、侮辱であると主張していた事など、大抵の人々が関心を持たない事を取り上げた事で、高齢者を中心として評価する声がある。作詞を手がけた主な楽曲。いくつかの曲には永自身が歌った盤もある。
出典:wikipedia
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