北条 氏光(ほうじょう うじみつ)は、戦国時代・安土桃山時代の武将で、父は北条氏康(父は北条氏尭で、氏康の養子となったとも)で八男とも九男ともいわれている。正室は北条幻庵の娘。子に氏則。通称は四郎。官途名は右衛門佐。元亀元年(1570年)に氏光は駿河深沢城の後詰め、相模足柄城の守備をするなど相模と駿河の国境防衛に当たっている。やがて駿河と伊豆の国境沿いの戸倉城将となり、隣接する口野五か村が長兄で当主の北条氏政より与えられた。北条幻庵の婿養子だった兄弟の三郎(上杉景虎)が越相同盟により上杉謙信の養子となったため幻庵の娘を離縁させ、氏光に嫁ぎ三郎が守備していた武蔵小机領を継承した(家督は幻庵の孫で次男綱重の子氏隆が継いだ)。天正9年(1581年)に氏光に替わって戸倉城を守備した重臣松田憲秀の長男笠原政尭が武田勝頼に謀反したため、駿河東郡が武田氏の領地に、武田氏滅亡後は徳川家康の領土となった。天正18年(1590年)の小田原征伐では、はじめ足柄城を兵600程を率いて守備しているが、後に小田原城に籠城。豊臣秀吉に敗戦すると、当主で甥の北条氏直や兄の氏規ら生き残った御一家衆や他の北条家家臣と共に高野山に追放され、蟄居中の同年9月15日同地で没した。子の氏則は徳川家康に旗本として仕えたが、氏光から見て孫の代よりその後の子孫の動向が把握できない。長く誤解を受けていた北条氏尭(詳しくは同項目参照)とは別人であり、氏尭が使っていたとされた印判のうち「有虞宝晈陶唐」、「福寿」、「桐圭」のうち「有虞宝晈陶唐」は氏尭、「福寿」は北条氏信(2代目狭山藩主ではなく幻庵次男)、「桐圭」は氏光だということが分かった。
出典:wikipedia
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